飯久保廣嗣 Blog

最近気になる出来事

北京オリンッピックで大気や水質の汚染が問題になっている。日本も20年前には同じ問題が起こり、これを見事に解決した。問題が明確であって、達成するゴールが現実的であれは、解決することは可能である。中国でもいずれこの問題を解決することになるだろう。

ところが、である。わが国には、今、目に見えない“心理的な”環境汚染が充満し、閉塞状態に陥っている。

目に見える現象は放置しておくと、そのインパクトを観察できる。従って、対応することは比較的に容易である。現象に対する国民の認識、具体的課題設定、解決策、良識ある行動力、そしてそれを支援するマスメディアの力があれば解決可能なのである。

問題は、目に見えない“心理的な”環境汚染である。これには、多くの国民が漠然とした不安と焦燥、怒りを持っている。この環境汚染は、政界や中央官庁、そして企業やマスメディアの一部で顕在化している。だが、目に見えないものであるため、明確に認識することが困難になっている。そして、この見えざる環境汚染は確実に進行している。心ある国民は傍観をしていてはいけないと思っている。しかし、手の打ちようがないのが現状である。

この環境汚染に対応できる特効薬は見当たらない。心ある国民一人ひとりができることを実行していくことから始めていくしか、解決手段はない。「傍観から行動へ」、自らの態度を変えるのである。

行動の内容は、組織や個人の状況によって異なる。しかしながら、1ついえることは、「良識に沿った行動」であるということだ。「良識」とは先人が残した行動規範もその1つであろう。そして、良識とは国際的にみても、恥ずかしくない、威厳のある発想であり、それを基礎とした行動も、世界から尊敬を受けるものといえる。

政府が、外国との交渉で、円滑で友好的な関係に腐心し、国益を主張しない。また、企業では、著しく理念や倫理に反する行動が常識化している。こうした現状は、海外のメディアを通じては確実に報道されている。そう思うと、実に悲しくなる。国際的に評価されていた日本は、一体どこに行ったのか。

私は、日本人は世界に冠たる高い「人間の質」(Quality of People)を持つ国民であると信じている。

かつて、日本はQC運動による品質の高い製品で世界に貢献してきた。これからの日本はQuality Control of Peopleを展開し、品質の高い人材を輩出する国といわれたいものだ。それには良識に基づき行動する日本人を数多く世の中に送り出すことが肝要となる。

良識とはCommon Senseのことであると思う。初等教育の「道徳」の時間も、東洋的で日本的な意味を含んだCommon Senseを認識させることを目的にしてはどうか。国際的に通用する日本の「良識」を定義し、それを教える。科目名も「道徳」ではなく、「良識」の時間とする。そう位置付ければ、反対する人は少なくなくなるのではないか。

中国の胡錦涛国家主席が来日し、日中両首脳が共同声明に署名した。両国の相互信頼の確立は永い目で見なければならないが、中国が日中友好協力関係の強化を打ち出していることは、注目すべき点である。日本人の一人として今後の展開を見守りたいと思う。

しかし、「共同宣言」なるものについては、一言申し上げたいことがある。これが、当たり障りのない外交辞令的なものから、一歩前進した具体性のあるものにならないかと思うのである。過去の歴史や現在存在する諸問題の認識に対する両国の見解や表現方法が穏やかになったことはよい。だが、日本としては、建設的で相手に感銘を与えるような発想を共同宣言に盛り込んで欲しかったと思った。

お互いが納得できる提案を日本が考える際に、まず、どのような目的の達成を目指すか。また、両国がクリアしなければならない項目は何かなどを明確にして、検討をし、考えを構築してみれば、より効果的で意味のある「共同宣言」になったのではないか。

例えばその目的やクリアすべき項目としては、「日中の国民が諸手を挙げて賛意できること」、「アジアから世界社会にインパクトを与えられること」、「長期的に安定して展開できること」、「世界に前例がない新規性があること」、「両国が持っている資源の活用になること」……などを挙げることができるだろう。

このような発想からでてくる構想は、例えば、「世界で発生する地震、津波、台風などの天災に両国が協力して人道的な救援・支援活動を展開する機構を立ち上げる」といったものかもしれない。

こうした活動には、両国の若者を活用することも一つの手である。人に対する優しさ、建設的な活動に参加する歓びを、未来を担う若い世代が一致団結して協力することで、分かち合うのである。

そして、日本の自衛隊と中国の軍隊を平和な目的や人道的な救済支援に使用することができたら、両国の世界社会への画期的な発信になるかもしれない。このような機構は西欧にはあるかもしれないが、まだ、アジアにはない。

論理思考、クリティカルシンキング、科学的思考法――。これらの考え方は世の中の関心を集めてきた。これは専ら企業や組織に属する人たちを対象に語られてきた。しかし、合理的な考え方というのは、ある年代の人々のみに限定するものではない。

ちなみに、合理的な考え方というのは、論理的で、体系的な、効率のいい、ものの考え方のことである。1996年発刊の第1版における「思考」の定義には、優れた表記がある。それには、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程。象徴的なのが特徴。或いは、概念または言葉などによる問題解決の過程」とある。これは思考の過程(プロセス)を重視した定義であり、極めて的を得た表現といえる。

この思考する力を、養うためには早い段階からの環境作りと指導が必要だ。これを促進するためには2つの側面がある。1つは学童・生徒が発する「なぜ」という質問に、丁寧に答えることではないだろうか。例えば、夏休み前に小学生が先生に、「なぜ、この宿題をする必要があるのか」という質問があったとしよう。これは、物事の根拠をただす質問であり、極めて重要な「ティーチング・オポチュニティ」であることを認識したい。

2つ目は、学童・生徒をして、いかに考えさせるかという観点に立って、「質問」を親も先生も工夫することである。これは事実関係を確認する質問とは、基本的に違うものと捉えたい。例えば、歴史で、「日露戦争の年号や詳細な戦績」を聞く質問は、単なる知識を問うものでしかない。

これに対し、「なぜ、日露戦争は勃発したのか」という質問は、物事の本質を考えさせるためのものである。この違いを認識して使い分けたい。言い換えれば、“What”、“Where”、“When”に関する質問と、“Why”についての質問の違いである。子供は実は、“Why”の質問をするのも、答えるのも得意なのである。その芽をつぶすと、自分自身で考えること=思考力を持たない大人になってしまう。日本社会にとっても、憂慮すべきことではないだろうか。

日本社会が閉塞感に陥っている大きな背景の1つが、変化への対応が出来ていないということである。このことは、意思決定が遅い、リスク対応が甘い、議論(会議等)にムダがある、短絡思考である・・・などの現象に見られる。これにより、日本社会全体の競争力は著しく低下しているのである。

変化を先取りし、複数のシナリオ(最悪なものを含む)を想定することは、日本人の発想の中には、欠けている領域ではないだろうか。これについて、2000年に藤原繁士氏は次のように述べている。「あって欲しくない事は、あってはならないことであり、あってはならないことは、口にしてもいけないし、考えるなどはもってのほかである。だからそんな事実はないのだと言うような、思考停止・自己催眠は、現代を風靡する世界的傾向であるが、日本において最も顕著である」。

この状況は改善されているどころか、ますますひどい状況になっている。韓国や中国、台湾、シンガポールでも、これらの現象は見られるが、日本ほど、深刻ではない。将来の様々な現象を、いいことも、悪いことも含めて積極的に発想し、それらに適切な対応をあらかじめ講じておくという“想定力”を個人、組織、社会が強化することが、日本の閉塞状況を打破する1つの道になるのではないか。これは、かなり勇気を伴うことである。

最近、米海軍の脱走兵による殺人事件をメディアが大々的に取り上げている。この一連の問題で、1つ不自然に感じることの一つは、駐日米国大使と在日米海軍司令官が、横須賀市長のもとを謝罪のために訪れ、頭を下げたことである。

さらに、もう1つ不自然なことは、この市長が「2度と問題を起こさないようにしていただきたい」と、居丈高に強く要請したことである。国を代表する人が謝罪に来ているのに、不遜と思われる態度で対応しているのである。両米国人責任者の心中を察すると、穏やかではなかったのではないだろうか。

この問題の本質は、「在日米軍の軍人は絶対に犯罪を起こしてはならない」という神話が存在することである。これは、「自衛隊員は絶対に事故を起こしてはならない」という発想と同じである。こうした発想は現実的ではないし、危険である。隠蔽体質はここから発生するのである。このような呪縛から解放されていないことは、日本が解決すべき本質的な問題の1つだ。

物事に絶対はない。「犯罪や事故は起こりうる」という発想の転換が必要である。そして、そのような現象が、どのような確率で、どのようや原因で発生するかということを分析することが必要となる。その上で諸対策を予め考えておくことがポイントとなるのではないだろうか。

対策としては、例えば、「犯罪の度合いにより、被害者への補償を決めておく」、「犯罪者に対する捜査の手順を事件の内容別に策定しておく」、「再発防止の諸施策を予め決めておく」などが考えられる。物事や事件が起きてからその対応を協議するのでは遅すぎるのである。

日本人の智恵にある「泥縄の教訓」を生かしたいものである。この諺の意味は、問題の発生を想定して、万が一それが発生した時の影響を最小化する対策を予め講じておくと言う
事である。泥棒が入ってから犯人を縛る縄をなうのでは遅いという意味である。

この発想が国際社会で当たり前に使われているコンティンジェンシーの概念であり、残念ながら今日の日本には、適切な言葉すらない。状況に応じて、予備対策、有事対策、緊急
避難対策、予備計画、発生時対策など、同義語はあるものの、概念を表す言葉は見えない。

日本では、外圧を背景に、さまざまな法律を作り、それを施行してきた。そのなかには、日本版SOX法、規制緩和(正確には規制撤廃―Deregulation)関連、後期高齢者医療制度、など各方面にわたる。その結果、国民生活に混乱を起こしているケースも少なくない

ではなぜこのような混乱が起こるのであろうか。原因は単純ではない。しかし、1ついえることは、霞ヶ関の優秀な官僚が知恵を出し策定した法律には、「表」があるのみで、「裏」がないということである。

「表」というのは、その法律の完璧さ、絶対性を追求することである。「裏」とは、その法律が実際に施行されたときに、どのような諸問題が発生するかを想定することである。

この「裏」を分析し、諸対策を織り込むことで、はじめて「表」を円滑な実施に繋げることになる。諸対策とは、将来の問題現象を想定し、それらの発生を防止する対策と、発生した場合の対応策である。要は表裏一体ということであり、日本の発想の欠点は「裏」への意識が薄いことなのである。

これでは、太平洋戦争突入前の日本の指導者の発想と同じではないだろうか。つまり、陸軍の参謀本部(今日で言えば、中央官庁)が絶対的な権力を持ち、その判断と決定は完璧であり、それにしたがって進めれば、国益が守られると信じていた、あの悪夢の二の舞になりかねない。その結果として国家の崩壊があったことを忘れてはならない。

これを改めて教訓にし、法律の立案に取り組んで頂きたい。そして、全ての法律は国益と
国民のWell Being(望ましい事、プラスである事)になり、実施した場合の「裏」の分析と対策を織り込む事によって施行上の問題発生への対応に万全を期して頂きたい。