戦後60年以上が経過し、我国は高度経済成長を成し遂げたものの、社会の多くの基本的な側面において、未だに混迷の状態にあります。日本の近代史には、「明治維新」、「敗戦」、「バブル崩壊後の平成不況」の3つの大きな節目があると私は考えますが、前者2つは外国との関わりにおいて発生したものであるのに対し、3番目の「平成不況」は我々日本人が作り出したという点において、決定的に次元が違う節目と捉えることができます。
外国との関わり合いの場合は、原因が明確であり、従って、国民として目指すべき目標もそれぞれ「近代国家建設」、「戦後復興」と明瞭でした。しかし平成不況の原因は、複雑であり、国としても、国民にとっても、はっきりした目標を立てることが難しく、それが混迷の原因となっているといえるでしょう。
同じ敗戦国のドイツは、2度目の敗北でした。敗戦からの復興を一度経験していたため、敗戦処理のノウハウを持っていました。例えば、自らの戦争犯罪は自分たちの手で裁いたことなどが挙げられます。一方、日本にとって敗戦は未経験であり、同じ戦争犯罪への対応でも、東京裁判という戦勝国による一方的な裁判による決着となってしまいました。そこで、主体的に一歩を踏み出せなかったことが、今の混迷につながっていると私は思えてなりません。
私は今の時代を、敗戦処理の第2段階、すなわち“戦後処理PhaseⅡ”という捉え方をしてよいと思います。つまり、まだ「戦後」は終わっていない。世界第2位の経済大国でありながら、国民としての意識やプライド、活力を持つ実感がない状況の打破なくして、本当の意味での「戦後」は終わらないのではないでしょうか。従って、今は、国家戦略や国としてのビジョンを早急に確立することが望まれます。そうすることで、様々な課題を何とかうまく乗り越え、次世代に渡すことが肝要ではないかと思います。
昨今、教育現場の荒廃、一部の企業の社会的責任や倫理観の欠如、家族の良き伝統の崩壊など、混迷の具体例には枚挙に暇がありません。その中で、識者は諸問題の解決の糸口を教育に求め、よく「これからの教育をどうするか」という問いかけをします。そして、その号令のもと、知識偏重教育の弊害を克服しよういう議論が各方面でなされています。しかし、その多くは制度の改革など「対症療法」になっているように見えます。
聞くところによると、教育水準がトップクラスであるフィンランドでは、「問題解決力」を小学校の頃から教え込んでいるそうです。数学の時間も「Problem Solving」すなわち「問題解決」の時間と位置付けているようです。単なる計算を学ぶのではなく、「問題を解決するための考え方の基本」を教えているということでしょう。
フィンランドに倣うわけではないですが、日本が世界社会において相応な役割を担うためには、未経験の問題を解決したり、重要な意思決定を下すといった能力をどのように育成するかという、教育に対する根本的かつ具体的なビジョンが必要なのではないでしょうか。その能力が、混迷する時代を切り抜ける武器になることを認識し、早いうちから育成プログラムを導入することが日本の明日を作ることにつながると私は思います。
また、そもそも教育とは何なのかという定義を改めて確認する必要があると思います。広辞苑をみると、「教え育てること」、「導いて善良ならしめること」程度の定義しかなく、こうした曖昧なものでは、力強く第一歩を踏み出すことはできません。
私は米国のある大学で見た教育の定義に感銘を受けました。それは、“Education is to learn the use of tools which the mankind has found indispensable”(教育とは人類が不可欠と判断するツールの使い方を身に付けることである)。我々日本人は、ツールとは道具であり、道具は目に見える作業の質や効率を向上させるために考案されたものと考えます。しかし、この定義の中のtoolsは、“目に見えない知的作業”である問題解決力や意思決定力の水準や効率を高めるために活用するものであると解釈できます。こうした根本的な部分をより一層教育改革の中で論議していただければと思います。