飯久保廣嗣 Blog

教師による学生の成長を促すための「教える工夫」は、いったいどれくらいなされているものなのでしょうか。今回は、私が見聞きした2つのケースを紹介したいと思います。

1つは、「ゆとり教育」に関することです。失敗に終わったといわれ、今ではネガティブな印象さえ与えている文科省の教育方針。しかし、遡ること数十年前、私がお世話になっていた東京のある私立中学では、中等部長が生徒の人間的な成長を図るために、授業とは関係のない、今で言うゆとり教育を既に実践していました。思い出すままに列挙すると、国立博物館の見学、シェークスピアのマクベスの観劇、青少年交響楽団のコンサート鑑賞、有機肥料による季節の野菜作り、中等部長推薦書籍の強制的な読書……。多くの例が浮かびます。

日本の教育は、①人格形成に影響するもの、②知識、③智力の3つのバランスのもとに成り立っていると思います。その中等部長は、①を自らの創意工夫で実践していたわけです。

もう1つのケースは「高等教育」の例です。ある大学の教授は、担当講義の1日目に、
高度なテストを実施します。そして、全く同じテストを、授業最終日にも解かせるのです。目的は、学生1人1人が一年間でどの程度進歩したかを計ること。そのいわば成長率を最終的な成績に3分の1のウェイトで反映させました。最初のテストで、70点取った人が、最終で80点であれば、本人の成長率は10ポイント。最初に30点の学生が最終で70点を取れば、成長率は40ポイント、という具合です。

こういったクリエイティブな先生を生み出すための仕組み作りを、担当行政機関はぜひとも考えてほしいものです。

一方、欧米諸国には、依然として社会のリーダーシップを担える学生を選別し、エリート教育を積極的に推進しています。日本のように「格差社会は問題」などという発想は微塵もありません。ポテンシャルを持ったひと握りの人たちが、良心に基づいた行動を起こすエリートとして、社会で活躍する。この考え方が定着しています。私は、これこそ今日の日本に必要な発想だと思います。選抜された学生が社会に出た暁には、様々な領域で、良質な成果を生み出すのです。

もちろん、エリート教育を受けずに、本人の努力でリーダーとなる人も少なくないでしょう。しかし、エリートの責任を自覚させ、公に尽くす強い気持ちを教育によって醸成することは、将来の日本に決してマイナスではないと思います。これも教育制度という大きな視野に立った「教える工夫」ではないでしょうか。