教育問題が議論されて10年以上経ちます。それにもかかわらず、具体的な方針、哲学、行動ブランがいまひとつ明確にならないことに、歯がゆさを感じている人も多いでしょう。その背景の1つに、「責任感を持ってものを決める」ということを誰もやらない時代になってしまったことが挙げられるでしょう。成り行きまかせでなんとなくものが決まることが多くなってしまっているのです。
その成り行きでものを決めて大きな問題となったことの1つこそ教育問題です。これは一般的に、占領下に米国が策定した、極論すれば日本人をダメにする「教育制度」が原因であると認識されています。しかし、米国側は占領政策のすべてを日本側のカウンターパートの同意を得た上で進めていたと、当時の占領軍の米国高官から聞いたことがあります。たぶん事実はそうであったのでしょう。
結果として戦後の教育制度が今日の日本人の人格形成に少なからず負の影響を与えたことは事実でしょう。しかし、当時の日本側のカウンターパートが、占領下という特殊事情があったにせよ、もう少し自主性をもって対応していれば、状況は変わっていたかもしれません。現在の日本の教育が荒廃しているのは、占領軍の意図的な政策を押し付けられたからという短絡思考では、問題の本質が見えにくくなるのではないでしょうか。問題の根源は、日本人がその時点から自主性を持ち、それを主張することが少なくなったことにあると私は思うのです。それにしても、日教組の功罪について誰も触れないのは不思議です。
日本人や企業にとって、特に自主的にものを決めることが必要になったのは、昭和58年の対米自動車輸出自主規制に端を発すると私は考えます。それ以前の種々のプランやモデルは、欧米にある手本を下敷きにして、決められていたといっても過言ではありません。しかし、それ以降は、手本がなくなり、成り行きや外国の様子を見てものを決めることが難しくなったといえます。
ものを決めるということは、鋭い直感力に基づく場合と、論理の積み上げでなされる場合の2通りがありますが、今日の日本はこの両方を失っているように見えます。その結果、問題や課題を意識的に設定し、主体的に責任を持ち、リスクを負って解決することが、必要な時代にもかかわらず、なされてないのです。若者が主体的に考え、行動しないといわれていることもこのような背景があるのではないでしょうか。
では、どうすればいいのでしょうか。もちろん特効薬はありません。しかし、先人が残した日本固有の発想を原点が、教育制度をはじめとする様々な問題を解決するヒントになるかもしれません。例えば、西郷隆盛の次のような言葉に糸口を見出すことができます。
「正道を踏み、国家を以て倒るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず。相手の強大さに萎縮し、円滑を主として、曲げて相手の意に従う時は、軽蔑を招き、友好かえって破れ、終に相手の制を受くるに至らん」
これは外交について述べたものですが、国際社会で生き残るためにも、自分と相手、自社と他社に置き換えて活用したいものです。