人間にとって最も重要な活動のひとつは、「考えること」です。ではなぜ考えるのでしょうか。この本質的なことについて、昨今はほとんど議論されなくなったように思えます。
このことは、我々が日常的に使っている言葉に対する定義が曖昧になっていることと無縁ではありません。そのほかにも、「意思決定」、「リスク」、「管理」、「目標」、「教育」、「コミュニケーション」など、それぞれの定義を意識しながら使う人は少ないのではないでしょうか。
使われる言葉の定義が明確でないと、本来の目的は達成できないと思います。例えば、コミュニケーションを取り上げてみると、日本語の国語辞典では、「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと」となっています。一方で、英英辞典でcommunication、communicateを調べてみると、「相互が行動することによって、お互いが共鳴しあうこと」、「相手に対してつながりを持つための行為」、「考え方の交換を行うこと」など、より相手との関係を意識した解釈が列挙されています。また定義の原点には、「キリスト教の聖霊典に参加すること」という意味合いもありました。コミュニケーションとは元々宗教的な儀式から発想されたおごそかな概念だったのです。これは、コミュニケーションの語源を調べているうちに発見したものであり、私にとっても驚きでありました。
大学教育におけるコミュニケーション関連の講義においても、単なる方法論、ノウハウを教えるだけでなく、根本や原点を見つめることも必要なのかもしれません。
さて、冒頭の「考えること」に戻りましょう。昭和41年発行の広辞苑で「思考」を引いたところ、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程」という定義があります。つまり、考えることとは、まさに結論を導くための「段取り・手順」だと、広辞苑では言及しているのです。従って、効率よく思考する、考えるということは、この思考手順を合理的に確立することといえるでしょう。
他方、「考える」を英語に訳すとthinkになります。このthinkの概念は、欧米でどのような意味を持っているのでしょうか。それを調べてまた驚きがありました。多くの定義の中で日本的発想にないものをピックアップすると、「自分の意見を持つこと」、「信念を持つこと」、「理性的に問題解決をすること」、「目的を持つこと」、「継続して頭に留めること」、「反省すること」、「想定すること」などが実に多岐にわたります。そして、自己確立に欠かせない重要な概念と位置付けられているのです。ちなみにthinkerとは、specified manner(固有の方法)を用いて考える人。つまり、普遍的な方法で問題を解決することができる人を指すといえます。
パスカルは「人間は考える葦である」といいました。このような背景を持ってこの格言を見直せば、言葉の持つ本質がおのずと見えてくるのではないでしょうか。