日本では今、様々な新しい動きがあります。20代、30代で起業し莫大な富を築く若者、規制緩和を最大活用して利益の拡大のみを追求する経営者、キャリア組から民間へ転身する官僚、カタチを変えた天下りを残そうとする役人、マネーゲームのみで蓄財に走る個人投資家など、挙げ始めたらキリがありません。また、このこと自体は、非難される行為ではないという考え方もあるでしょう。
しかし、一方で、ニューヨークヤンキースで活躍する松井秀喜選手は、年棒15億円などの年収の一部を社会に還元していると聞きます。また、巨額の富をウォールストリートで築いたジョージ・ソロス氏は財団を立ち上げ、その資金を東欧の社会開発のために役立てています。かの有名な韓流スターも、日本やアジアの災害時に、桁違いの見舞金を送ったというニュースもあります。
このようなことを考えると、日本社会がおかしくなった原因は、「個人」と「公」のバランスが崩れていることにあると思われます。リーダーシップや富を持つ人たちが、「公」に対する自覚を持つことにより、このおかしさが正常化されるのではないかと思います。
昭和38年に国鉄総裁に就任した石田礼助翁は、国会で、「粗にして野だが卑ではない」と、挨拶されました。城山三郎が、この言葉を書名にした著書を上梓しています。余談ですが、元プロボクサーのガッツ石松も、よくこの言葉をサイン色紙に書いていると聞きます。立派な考え方で人生を歩まれていると、思わず感心させられました。
粗にしての「粗」は、「行き届かないこと、上品でない、言いたい放題、粗雑」という意味があります。「野」は、「野蛮で一般的な礼儀を知らない」と定義されています。そして「卑」は、「欲が深い、飽くことを知らず欲張る、むさぼること」という意味があります。
「おかしい」と感じている多くの人たちは、世の中があまりにも「卑」中心になっていることに対する危惧の念を持っているのではないでしょうか。自分も含めて、このことの根の深さを省みたいものです。我々の先人が残した日本の価値観は、「卑」に根差しているものでは決してないと思うのです。むしろ、西欧の資本原理の行き過ぎが、greed(むさぼる、貪欲、強欲)となって、日本のよき伝統に少なからず影響を与えているのであり、このことを自覚したいものです。