10数年前にある日本の国際企業の社長と車中で話す機会がありました。私の友人であり、今は亡きこの社長が、突然、「責任を取るとは、どのように解釈したらいいのか」と、尋ねてきました。詳しく聞いてみると、彼の会社の有力な事業部長が、新規事業の提案を持ってきた際に、「仮にこの事業が失敗したら責任をとります」と、言ったそうです。私の友人であるオーナー社長にとって、責任を取るということが、事業が失敗した場合に会社に与えるであろう損害を賠償することまで含むかどうか、ということが大きなポイントでした。
日本で責任を取るとは、辞任する、あるいは謝罪する程度の意味しか持たないといえます。ところが、国際社会では、損害を受けた側がその賠償請求について訴訟を起こした場合、それを受けてたつというところまでの意味があるのです。日本では、あまりにも、「責任を取る」という言葉が軽く用いられています。
この日本的発想が、未解決の従軍慰安婦問題にも、影響を及ぼしています。責任という言葉で処理するならば、日本人自身も戦争の被害者であり、日本政府に対しその戦争責任を追及することも可能なはずです。しかし、このような事態は聞いたことがありません。
私の考えでは、戦争「責任」への対応と、戦争「犯罪」との違いを明確にする必要があると思うのです。片方が、戦争責任に対し、100%否を負うということはありえません。それにも関わらず、近隣諸国が責任に対し賠償や謝罪を要求している現象は奇異に映ります。
海外のこの問題に対する報道では、私の知る限り、“Japan’s war crime”という言葉が使われています。“War responsibility”という表現はほとんど見られません。このことから考えると、日本はあくまで「戦争犯罪」に対応するというということが本筋であり、戦争責任に対して、謝罪をしたり、賠償をするということは、筋違いと主張することもできるでしょう。戦争犯罪であるか否かを判断することが必要であれば、国連なり、権威のある組織に判断を仰ぐということもひとつの方法です。
責任への謝罪という行為には、キリがないという現実を、日本人は痛いほど経験してきたはずです。従軍慰安婦問題に限らず、天下の大企業が不祥事を重ね、そのたびに経営陣が頭を下げ続けるという現象が、何よりもそれを雄弁に語っています。日本的文化の影響があるにしても、企業の不祥事で最高責任者が謝罪をするという現象は、日本以外に見られないことです。欧米では、不祥事が発生した場合、防止策や発生したときの影響を極小化する措置にヌケや甘さがあれば、それは「犯罪」として扱われるのです。