外交の原点はいったいどこにあるのでしょう。以前にも触れたことがありますが、外交とは、「外国交際」を略した言葉といわれています。この「外国交際」という言葉を、文書の中に残しているのが、かの西郷隆盛です。
存命中の言葉を記した「南州翁遺訓集」によれば「正道ヲ踏ミ國ヲ以って斃ルルノ精神無クハ外國交際は全カル可カラズ 彼ノ強大ニ畏縮シ円滑ヲ主トシテ曲ケテ彼ノ意ニ順従スル時ハ軽侮ヲ招キ好親却テ破レ終ニ彼ノ制ヲ受ルニ至ラン」とあります。
また、英語のDiplomacyは、WEBSTERの辞書によると、「正当な代表者が国家間の関係をconductすること(意訳すれば、国家を代表してリーダーシップを発揮する行動をとること)」とあります。
この西郷やDiplomacyの理念にもとづいて行動し、国際社会において尊敬され、評価された外交官は、果たして日本にいるのでしょうか。調べてみると、大正から昭和にかけて、活躍した、珍田捨巳氏というひとりの外交官にたどり着きます。珍田氏は、外務大臣への就任を2度も断り、外交官としての職務に身を捧げたといわれています。作家の團宏毅氏によるプレジデント誌(1985年5月号)の記事には、「駐米大使時代、当時のブライアン・アメリカ国務長官は、アメリカと日本以外の国の間の問題であっても、わざわざ珍田に会って意見を訊ねたこともたびたびであった」と、記されています。
また、大正9年8月に珍田氏が駐英日本大使を退任する際、ロンドンタイムズ紙は、社説で珍田氏に送別の辞を告げ、その功績を賞賛したと、同じ記事には書かれています。
さらに、第一次世界大戦後の講和会議に出席した際、アメリカのウィルソン大統領と激論を交わしたことは今も語り草となっています。「人種平等条項」を入れるように強く主張し、一歩も引かなかったそうです。ウィルソンやイギリスのロイド・ジョージ首相は、珍田氏を「ファイター」と呼び、称えたといわれています(これらの詳細は1999年8月5日付けの東奥日報に書かれています)。
この珍田大使の足跡にこそ、日本が展開すべき“外交の原点”があるのではないでしょうか。確かに、外交で主張すべきテーマを持つことは大切です。しかし、国際社会における人間としての信頼と尊敬がなければ、主張に説得力が生まれないというのもまた現実です。珍田氏のような人物をいかに輩出するか。それも日本の大きな課題といえるでしょう。