飯久保廣嗣 Blog

私の米国留学時代の学友にテキサス州の教育委員会で青少年問題に長年取り組んできた女性がいます。彼女は中高生の自殺予防対策の専門家であり、著書も多数あります。彼女によると米国では、中高生の自殺の背景には、アルコールやドラッグ、両親の離婚、そして自信喪失等があるそうです。

一方で、日本では、自殺の背景には「いじめ」があります。昨年彼女とこの問題について若干議論をしました。ニューヨーク育ちの彼女は自分の兄による「いじめ」があって、大学の宿舎から家に帰るのがいつも恐ろしかったと笑って言っていました。成人した今は非常に仲の良い兄妹になっています。

ところで、「いじめ」は英語でBullyといいます。定義は、「小さいもの、弱いものに対して、恐怖や脅威を与える」などとあります。一般的にBullyをする人は人間として最も卑しいと言われます。職業として、「客引き」、「ポン引き」などという意味もあります。

世の中には必ず弱者と強者がいます。望むべきは、強者が弱者にいたわりを持ち、争いのない状態を維持することでしょう。しかし、洋の東西を問わず、Bullyを面白半分にしている子供たちは少なからず存在します。これは、人間の営みの一つの過程でありごく自然な
現象です。いじめっ子はどの時代にも居るものです。

したがって、「Bullyをやめさせる」、「いじめをやめさせる」という日本的な発想は非現実的ではないかと思うのです。それにもかかわらず、日本で「いじめ」がこれほど社会問題化している背景はいったい何なのか、私なりに考えてみました。

ひとつは、加害者の人権を尊重するという考えに行き過ぎがあるのではないか。さらに、関係者が事態を穏便に処理しようとする、事なかれ主義の発想もあるのかもしれません。

そして、「いじめ」と「犯罪」の線引きが曖昧であることも原因のひとつと考えられます。「いじめ」はちょっとしたいたずらや威張りちらすという程度のことです。ところが、金品を要求する、暴力を振るう、脅迫をする、人権を侵害することなどは、明らかに「犯罪」です。この犯罪と「いじめ・Bully」とは一線を画すという認識が必要です。事実関係を確認した上で判断を下し、迅速に行動することが肝要であると思います。

「犯罪」であれば、家庭や学校が処理する事柄ではなく、警察による対応が必要です。被害者の親や先生が「犯罪」として扱い、毅然たる態度で警察に通報し告発することが求められます。さらに重要なことは、子供に対して、親や先生が、「いじめ」と「犯罪」がどう違うか、どこに線引きがあるかを明確に認識させることではないでしょうか。

また、学校が「犯罪」に対して警察の介入を要請することは当たり前のことで、躊躇があってはいけないと思います。職員会議で内々に協議し、校長が教育委員会に相談するような案件ではないという認識を持ちたいものです。