飯久保廣嗣 Blog

新年明けましておめでとうございます。今年最初のテーマは日本人の国際化や、日常の判断業務の効率化に不可欠な「質問」について、取り上げます。

物事を辞書などで調べる機会の多い方は、気づいているかもしれませんが、不思議なことに、西洋の概念を和製化した言葉には特徴があります。それは言葉自体が掲載されていないか、載っていてもその解釈が極端に短くなっているということです。

例えば、“decision making”という西洋の概念は、「意思決定」という大和言葉に置き換えられていますが、広辞苑(多少古いものですが……)では、その言葉すら見当たりません。一方、インターネットの辞書によると、「ある目標を達成するために、複数の選択可能な代替的手段の中から最適なものを選ぶこと」と、あります。一見、的を得た定義に見えますが、言葉が持つ奥深さを鑑みると、内容的に物足りないというのが正直なところです。

また、“problem”という言葉には「問題」という言葉が当てられています。これはさすがに広辞苑に載っていますが、その定義は「問いかけて答えをさせる題」「研究論議して解決すべき事柄」、「争論の材料となる事件」、「解答を要する問」と、これも内容的に貧弱と言わざるを得ません。

そして、解釈の短さは“question”、すなわち「質問」という言葉で顕著となります。広辞苑もインターネットの辞書でも、「疑問点やわからない点を問いただすこと」といった、実に簡単な定義で片付けられています。「質問」という言葉や行為を「軽んじている」といっても過言ではないでしょう。

個人や組織の活動は、意思決定や問題解決の連続です。それを進める上で、情報が重要なことは今さら述べるまでもありません。では、情報を得るためにはどのような手段が考えられるでしょうか。それは、「質問」という行為が大きなウェイトを占めることになります。

プライベートでもビジネスシーンでも、「質問」をすることによって、「問題や課題」、「根拠」、「リスク」、「複数の選択肢」、「優先順位付け」に関する数々の「情報」を得ることができ、意思決定や問題解決につながる道筋を組み立てることができるわけです。

日本の文化には、「問う」という概念はあります。しかし、主に「罪を問いただす、詰問する」(広辞苑)、「その人に罪・責任があるとしてきびしく責める」(インターネットの辞書)といった、判断をする際の「情報を得る行為」とは別次元のネガティブなニュアンスが目立ちます。さらに、「問う」に関連した熟語では、「疑問」、「設問」、「質問」のほかに、「喚問」、「尋問」「詰問」、そして、「拷問」など、人を追い込むようなイメージの言葉が少なくない。その結果日本人は、「質問をする」、「問いかける」という重要な発想と行為を、遠慮したり、躊躇したり、挙句の果てには軽んじるという独特のカルチャーが根付いてしまったといえます。

これは、日本が国際化する上でも、また、日常の判断業務に際しても、情報を得るための「最大の武器」を自ら封印してしまうわけですから、間違いなくマイナスとなります。したがって、意識の転換を図らなければならない領域です。「質問をする」という行為を、「問いただす」という発想と、「情報を得る」という発想に区別し、後者を積極的に意識することが必要となります。

有益な情報は鋭い質問によってのみ、得ることができる――。こういった認識を改めて共有したいものです。