1970年代の日米間には、貿易摩擦問題があり、緊迫した場面が何度もあった。当時の問題は、日本の対米貿易黒字であり、圧倒的に輸入する米国の製品よりも輸出の方が多かった。その結果、貿易のインバランスが起こり、政府が慌ててジャンボ機を購入したこともあった。
時経た今日、日米間では情報量について、インバランスが起こっている。ただし、70年代当時とは逆で、米国からの輸入が輸出よりも圧倒的に多くなっている。そして、この半年の間にアメリカ関連情報で圧倒的に多いのが、米国共和党・民主党の大統領予備選の情報といえよう。
G8先進国の中で、日本ほど米国の大統領予備選の報道を連日連夜取り上げている国が果たしてあるのだろうか。来る11月の大統領選に関する報道であれば、その情報量の多さも納得がいく。
しかし、現在の予備選挙に関する米国からの情報の入超は、マスメディアが無意識のうちに対米追従の姿勢をとっているのではないかと思ってしまう。
私は僭越ながら常々「日本はジャーナリズム不在であり、あるのはセンセーショナリズムではないか」と、思っている。歴史が転換するときに、物事の本質を押さえ、耳障りな内容であっても、それをあえて周知し、国民の意識を喚起することがジャーナリストの本質ではないだろうか。
今の時代、日本人と日本社会にとって、大切なものは何か、それは報道に値するものなのか、というジャーナリズムの原点が、ますます見えなくなっている。「新聞の質が国民の質を現す」という司馬遼太郎の言葉を今一度噛み締めたい。