飯久保廣嗣 Blog

2008年04月25日

日本社会が閉塞感に陥っている大きな背景の1つが、変化への対応が出来ていないということである。このことは、意思決定が遅い、リスク対応が甘い、議論(会議等)にムダがある、短絡思考である・・・などの現象に見られる。これにより、日本社会全体の競争力は著しく低下しているのである。

変化を先取りし、複数のシナリオ(最悪なものを含む)を想定することは、日本人の発想の中には、欠けている領域ではないだろうか。これについて、2000年に藤原繁士氏は次のように述べている。「あって欲しくない事は、あってはならないことであり、あってはならないことは、口にしてもいけないし、考えるなどはもってのほかである。だからそんな事実はないのだと言うような、思考停止・自己催眠は、現代を風靡する世界的傾向であるが、日本において最も顕著である」。

この状況は改善されているどころか、ますますひどい状況になっている。韓国や中国、台湾、シンガポールでも、これらの現象は見られるが、日本ほど、深刻ではない。将来の様々な現象を、いいことも、悪いことも含めて積極的に発想し、それらに適切な対応をあらかじめ講じておくという“想定力”を個人、組織、社会が強化することが、日本の閉塞状況を打破する1つの道になるのではないか。これは、かなり勇気を伴うことである。

2008年04月21日

最近、米海軍の脱走兵による殺人事件をメディアが大々的に取り上げている。この一連の問題で、1つ不自然に感じることの一つは、駐日米国大使と在日米海軍司令官が、横須賀市長のもとを謝罪のために訪れ、頭を下げたことである。

さらに、もう1つ不自然なことは、この市長が「2度と問題を起こさないようにしていただきたい」と、居丈高に強く要請したことである。国を代表する人が謝罪に来ているのに、不遜と思われる態度で対応しているのである。両米国人責任者の心中を察すると、穏やかではなかったのではないだろうか。

この問題の本質は、「在日米軍の軍人は絶対に犯罪を起こしてはならない」という神話が存在することである。これは、「自衛隊員は絶対に事故を起こしてはならない」という発想と同じである。こうした発想は現実的ではないし、危険である。隠蔽体質はここから発生するのである。このような呪縛から解放されていないことは、日本が解決すべき本質的な問題の1つだ。

物事に絶対はない。「犯罪や事故は起こりうる」という発想の転換が必要である。そして、そのような現象が、どのような確率で、どのようや原因で発生するかということを分析することが必要となる。その上で諸対策を予め考えておくことがポイントとなるのではないだろうか。

対策としては、例えば、「犯罪の度合いにより、被害者への補償を決めておく」、「犯罪者に対する捜査の手順を事件の内容別に策定しておく」、「再発防止の諸施策を予め決めておく」などが考えられる。物事や事件が起きてからその対応を協議するのでは遅すぎるのである。

日本人の智恵にある「泥縄の教訓」を生かしたいものである。この諺の意味は、問題の発生を想定して、万が一それが発生した時の影響を最小化する対策を予め講じておくと言う
事である。泥棒が入ってから犯人を縛る縄をなうのでは遅いという意味である。

この発想が国際社会で当たり前に使われているコンティンジェンシーの概念であり、残念ながら今日の日本には、適切な言葉すらない。状況に応じて、予備対策、有事対策、緊急
避難対策、予備計画、発生時対策など、同義語はあるものの、概念を表す言葉は見えない。

2008年04月14日

日本では、外圧を背景に、さまざまな法律を作り、それを施行してきた。そのなかには、日本版SOX法、規制緩和(正確には規制撤廃―Deregulation)関連、後期高齢者医療制度、など各方面にわたる。その結果、国民生活に混乱を起こしているケースも少なくない

ではなぜこのような混乱が起こるのであろうか。原因は単純ではない。しかし、1ついえることは、霞ヶ関の優秀な官僚が知恵を出し策定した法律には、「表」があるのみで、「裏」がないということである。

「表」というのは、その法律の完璧さ、絶対性を追求することである。「裏」とは、その法律が実際に施行されたときに、どのような諸問題が発生するかを想定することである。

この「裏」を分析し、諸対策を織り込むことで、はじめて「表」を円滑な実施に繋げることになる。諸対策とは、将来の問題現象を想定し、それらの発生を防止する対策と、発生した場合の対応策である。要は表裏一体ということであり、日本の発想の欠点は「裏」への意識が薄いことなのである。

これでは、太平洋戦争突入前の日本の指導者の発想と同じではないだろうか。つまり、陸軍の参謀本部(今日で言えば、中央官庁)が絶対的な権力を持ち、その判断と決定は完璧であり、それにしたがって進めれば、国益が守られると信じていた、あの悪夢の二の舞になりかねない。その結果として国家の崩壊があったことを忘れてはならない。

これを改めて教訓にし、法律の立案に取り組んで頂きたい。そして、全ての法律は国益と
国民のWell Being(望ましい事、プラスである事)になり、実施した場合の「裏」の分析と対策を織り込む事によって施行上の問題発生への対応に万全を期して頂きたい。

2008年04月07日

日中の健全な関係の確立と維持は、国民の一大関心事である。ただし、日中関係は、安定した友好関係の連続とはなりえない。基本的な信頼関係を確立する過程において、意見の相違や緊張場面の発生は、起こりうることであり、避けては通れない道ではないか。

5月の胡錦濤中国国家主席の来日を絶対に成功させなければならない――。そういったことが政府や外務省の至上命題になっていると、国民は理解している。しかし、中国側が主導権を握り、日本側がそれに合わせるという図式が、国民の一般的なパーセプションのように思われるのは、不本意ではなかろうか。

そこで、素人である国民の一人が考えることは、日本側から主体的に、相手に対し、ボールを投げ、その反応を見ることが必要ということであり、それをぜひ実行していただきたい。具体的な行動を2つ提起する。

1つは、日本の国内政治状況の現状と混乱を理由に、胡錦濤国家主席の来日スケジュールの延期を打診することである。日本と中国との関係は非常に重要であるが、このような時期に来日され、失礼があってはならないし、真に申し訳ないが政局が安定した時点でお呼び致したい、と申し出ることは失礼にはあたらない。日本政府が難問山積の状況であることを中国も認識しているはずである。首脳の訪問を延期するという事例はいくらでもある。

もう1つは、チベット問題を受けた08-08-08の北京オリンピックへの対応である。日本が開会式に出席することが当然のような発想を、この際再考してみてはどうかと思う。これは相手にボールを投げることによって、日本が主導権を取ることにつながる。中国と友好関係を維持する姿勢に変わりはないものの、チベット問題を背景に、「オリンピック開会式への不参加を検討する」というメッセージを、相手側にぶつけるのである。

それに対して、中国側から「参加してほしい」と要請があり、それに対応するのであれば、日本の主体性の確立につながり、国際社会に対する日本のスタンスも示すことができる。