論理思考、クリティカルシンキング、科学的思考法――。これらの考え方は世の中の関心を集めてきた。これは専ら企業や組織に属する人たちを対象に語られてきた。しかし、合理的な考え方というのは、ある年代の人々のみに限定するものではない。
ちなみに、合理的な考え方というのは、論理的で、体系的な、効率のいい、ものの考え方のことである。1996年発刊の第1版における「思考」の定義には、優れた表記がある。それには、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程。象徴的なのが特徴。或いは、概念または言葉などによる問題解決の過程」とある。これは思考の過程(プロセス)を重視した定義であり、極めて的を得た表現といえる。
この思考する力を、養うためには早い段階からの環境作りと指導が必要だ。これを促進するためには2つの側面がある。1つは学童・生徒が発する「なぜ」という質問に、丁寧に答えることではないだろうか。例えば、夏休み前に小学生が先生に、「なぜ、この宿題をする必要があるのか」という質問があったとしよう。これは、物事の根拠をただす質問であり、極めて重要な「ティーチング・オポチュニティ」であることを認識したい。
2つ目は、学童・生徒をして、いかに考えさせるかという観点に立って、「質問」を親も先生も工夫することである。これは事実関係を確認する質問とは、基本的に違うものと捉えたい。例えば、歴史で、「日露戦争の年号や詳細な戦績」を聞く質問は、単なる知識を問うものでしかない。
これに対し、「なぜ、日露戦争は勃発したのか」という質問は、物事の本質を考えさせるためのものである。この違いを認識して使い分けたい。言い換えれば、“What”、“Where”、“When”に関する質問と、“Why”についての質問の違いである。子供は実は、“Why”の質問をするのも、答えるのも得意なのである。その芽をつぶすと、自分自身で考えること=思考力を持たない大人になってしまう。日本社会にとっても、憂慮すべきことではないだろうか。