最近、「抜本的な見直し」という表現が目立つ。特に政治や行政の世界では、この言葉を聞く機会が多い。民間企業の意思決定であまり使われない表現だ。
だが、民間企業でも「見直し」という表現は使われる。「見直し」の本質的な意味は、「いったん決定され、実行されたことに何らかの問題が発生し、このことを修正するために、対策を考え、行動する」ということになる。
目に見える製品であれば、この見直しは「設計の変更」ということであり、部品の交換などが考えられる。事態が深刻であれば、リコールということにもなる。これは、不良商品の「見直し」をして、改善することに他ならない。製造現場でのこの事態は深刻であり、企業の業績に直接反映してくることになる。
この現象を別の表現を使えば、「不良商品を生産・販売し、顧客に迷惑をかけ、世の中をお騒がわせした」ということになる。当事者には社会から圧力がかかり、謝罪が要求される。
しかし、政府の政策に不具合が発生し国民が迷惑をこうむった場合はどうなるか。これが不思議なことに、「抜本的な見直し」のひと言で許されてしまうのだ。
この抜本的な見直しの根底にあるもの、それは「意思決定の不良」である。従って、見直しをする場合、「なぜそのような不良が起きたのか」といった原因を明確にしなければ、再発防止策を作ることなど到底できない。抜本的な見直しを発表する際によく使われる「二度とこのようなことにならないように……」という言葉は、本来、原因が明らかになっていなければ、常識的にはいえるものではないはずだ。だが、現実には原因不明確なまま、言葉だけがひとり歩きする。
「今回の抜本的な見直しに至った原因は、「……」、「……」といった検討項目に抜け漏れがあり、さらに、実施上の計画である「……」、「……」に無理があった。従って、そこを改善するために、修正案は「……」、「……」といったものになる」となれば、納得がいく。国民も、メディアも、もっと論理的に本質に迫りたいものだ。
また、政府の政策の「抜本的な見直し」が生じる、つまり「政府の意思決定の不良」が発生すると、その修正のための費用(役人の作業費、制度変更のコストなど)は、やはり国民の税金から負担することになる。これからの時代は目に見える税金のムダ使いだけでなく、目に見えない「抜本的な見直し」にかけられる税金のムダも考える時代となろう。
精度不良の製品はクレームが付いて、すぐ返品される。工場で不良部品が発生すると、生産活動はストップし、大きな問題として責任者が対応する。目に見える現象に対してはこのように対処がなされ、問題の原因が究明され、再発防止の対策も講じられる。すなわち製品の精度のバラツキには大きな関心が払われ、これを改善するために経営資源が惜しみなく注がれる。
製品の精度については、まず、材料品質が吟味され、さらに、どのような方法で加工されているか、どのような「道具」が使用されているかが検証される。この場合の「道具」はすべて目に見える作業に関連するものであり、「道具」そのものを目視で確認できる。改善も工夫も容易である。目に見えるからである。
一方、目に見えない意思決定の「不良」はそれが発生してもあまり問題にならない。製品に対する不良のように、誰もすぐには迷惑をこうむらないし、それが大きな問題にならないうちは、傍観するほうが波風は立たない。
そうする方が無難。チームワークも乱れない。目に見えないから問題視する声も出ない。また、大きな社会問題になっても、意思決定の「不良」は責任を追及されない。マスメディアの前で謝罪劇を演じる必要もない。
戦後しばらくはこれでも経済は回った。高度な成長も成し遂げた。しかし、節目が訪れる。バブル崩壊前後から、ものづくりで世界をリードしてきた日本に陰りが出てきたのだ。そして、その状況は今より悪化しているといえる。
理由は何か。開発技術や生産技術、さらに日本人の能力が劣化してきたのだろうか。本質的な問題はそこではないだろう。意思決定の「不良」を解決せず、先送りしてきたことこそに問題の本質はあるのではないだろうか。
ところで、意思決定という、いわば「問題に対するベストのソリューション」を選定する場合、その精度の良し悪しはどこで左右されるのだろうか。例えば、意思決定がある案件に対して最適の選択肢を選ぶことであるならば、その精度を決めるのは、選択肢自身なのか、選択肢を選ぶ作業なのか、それは定かではない。
では、違った角度から見てみたい。人は不適切な選択肢を、何故選ぶのだろうか。カレーライスが効率よく作れても、味がマズい場合もある。何故そうなるのか。また、社内の切れ者が天才的な閃きで考えた新しい組織も、実施してみると、不評であちこちに齟齬が出てくることがある。画期的な新製品を開発して販売してみたが、思ったように売上げが伸びないこともある。なぜ、このような現象が起こるのだろう。
それは、意思決定の精度、すなわち「品質」が悪いためである。では良い品質の意思決定をするためにはどうすればいいか。
残念ながら特効薬はない。ただし、長期的な目で見れば、品質を向上させることはできる。それには、「最適な結論をもたらすための考え方(分析)を標準化」し、「それをマネージする方法」を獲得することが必要となる。そして、その原点は、結論に至る個別のアイデア(考え方)が、なぜ必要なのかを考慮し、その思考を身に付けることである。
カレーライスの料理の段取りを例に見ていこう。料理法がいかに理路整然かつ合理的であっても、その理由を考えなくては自分のものにならない。例えば、「なぜこの温度調整なのか」、「なぜジャガイモを煮込む前にタマネギを炒めるのか」、「人参と鶏肉の相性はどうなのか」など。
意思決定の精度を上げるには、考えるプロセスを論理的な手順に並べるだけでは不十分だ。それでは単なる知識にとどまり、智力にはなり得ない。なぜその過程にその考え方があり、必要なのかを熟慮する。そうすることで、智力となり、スキルは自分のものとなる。
つまり、意思決定の精度を追求し、自分も組織も適切は判断業務ができるようになるためには、思考のプロセスを超えた原理を考えることが最も重要となる。
「なぜ、意思決定には選定基準が必要なのか」、「なぜ、選定基準を分類しなければならないのか」、「なぜ、問題が発生した時の具体的な現象に対してセーフティーネットを事前に用意するのか」、「なぜ、その作業をその時点でするのか」――。
それらには明らかな根拠がある。そこを見出すことこそ、「意思決定」の不良を改善する原点だということを、胸に刻みたい。
これからはますます異文化間のコミュニケーションが議論されることになる。文化の違い、考え方の違い、習慣の違いなどをいかに乗り越えるかが、そのテーマだ。これは結構なことである。相手を知ることにつながるからだ。ただし、相手の文化や考え方を完全に理解することはできないということも、心得ておく必要がある。
一方で、異民族間の問題解決や意思決定には、コミュニケーションという手段を使わない。「利害不一致」となるため、それは「戦い」となる。
共通の武器は論理(ロジック)になる。そのロジックを使う時に、日本人の考え方に致命的に欠落しているアイデアがいくつかある。英和辞典にはそのアイデアを表す英語が掲載されているが、その訳語が適切でないために全く使われていないのが現状なのだ。これでは、交渉の場で「戦えない」。
その1つがConsequenceという概念である。英和辞典で引くと、「結果」とある。この訳語では不十分である。ロジックとして全く使いものにならない。
日常生活のシーンを例にとって説明してみることにする。新しい住宅を少し無理をして購入するとしよう。前述の英和辞典的発想でConsequenceを使えば、「もし購入した場合の『結果』はどうなるか」と問うことになる。この発想ではロジックを展開できない。本来の意味でのConsequenceを働かせれば、「そんなに無理をして大丈夫なのか」、「ローンを返済することができるのか」、「できなかったらどうなるのか」、「家庭が崩壊したらどうするのか」などとなる。
実は、ここに列挙した現象は、「ある行動をした場合に起こり得る結果」なのである。英和辞典でいう単なる「結果」とは概念が違う。
すこし詳しく英和辞典を引いても、1.結果、結末、影響。2.影響力、有力、重要さ、重大さ。3.社会的地位(名声)。4.帰結、結論。問題解決や意思決定をする際の重要な概念の説明がこのようであれば、日本人は、異民族と英語で交渉することは難しくなるだろう。新居を購入したら、「結果は? 結末は? 影響は? 影響力は? 帰結は? 結論は?」では、話が通じない。
英英辞典によるとConsequenceとは「ある行動の後に、追いかけてくるもの」(something that follows from an action or set of conditions)である。多くの場合ネガティブなことを想定することになる。情けないことに、このConsequenceを表す日本語さえない。
そこで筆者はこの30年以上前から「マイナス要因」という言葉を使う。意思決定や行動を起こす前に、これをしたらどのようなConsequenceが想定できるだろうか、どのようなマイナス要因が考えられるのかを、問うのである。例えば……
●もしそれが起きたら、どのような被害や損害が起きるのだろうか
●人にどのような迷惑をかけるのだろうか
●社会的にどのような状況をもたらすのだろうか ……など
よく、「考えて」結論を出したいものだ。特に外国との交渉において、日本人はConsequenceをはじめとするロジックの武器で、思考武装する必要があるのだ。それも、「一刻も早く」である。
40年前IBMは“THINK”を標語にした。あれだけものごとを考えるアメリカ人が「今さら“THINK”とは?」と、疑問を感じた人も非常に多くいた。当時の日本社会も「シンク」が流行。ただ、「シンク」の範囲や目的を吟味しないで、スローガンとしてうたうだけでは何の効果は出ない。そのうち、日本では、ブームが過ぎ去った。
ところが、米国では、今日でも“THINK”を重要視する。特に中等・高等教育においてである。様々な科目に「クリティカル・シンキング」という切口を入れて、教育している。具体的な教え方については、手持ちの資料がないので明確には示せないが、それは、ただ漠然と「考えなさい」と言っているのでないようだ。
聞くところによると、米国の教師は、「自分で考え、結論を出す力」を教えているようだ。そこには倫理的な視点、善悪の要素はほとんどない。シンプルにいえば、「因果関係」と「判断の根拠」について、それらを明らかにするためのフレームワークを教えているのである。
「どうして、そのように考えるのか」、「もっと他の方法はないか」、「そんなことしたら、どんな結果になるのか」、「その結果について責任は取れるのか」。そういったことを、各科目の中で、教師が考えさせているようだ。
「知識偏重」、「知識詰め込み」しか頭にない教師には、その意義が理解できないかもしれない。ある教師は「そんなことに時間をかけると受験試験に不利になる」と、言うだろう。また、「なぜ、この科目の勉強が必要なのか」と生徒に聞かれても、「それは、入試の科目にあるからだ」と、答えるのかもしれない。
その考え方や答えに、自分で自分の意見を形成しようとしている、納得しようとしている生徒は気勢をそがれる。その結果、何も考えない知識のムシが社会の優等生として尊重される。それらの優等生が国民の税金で運営される国立大学から、社会に出て行く。自分で仕事をクリエイトできない「優秀」といわれる集団が形成されていく……。
そんな背景が米国にもあったかどうかは知らないが、世界のIBMは社員に対し、あえて“THINK”を言い出した。そのココロは次のようなものだったのだろう。
●何か問題が起きたときに、先入観で判断した間違った対策によって、経営資源を無駄にするなよ
●原因を論理的に検証してから対策を講じるようにしろよ
また、こういうメッセージも込められていたかもしれない。
●やたらに、思いつきで判断するなよ
●その判断の根拠をとことん考えろよ
●実施する時の問題点を予め考えて、手を打っとけよ
●道中、問題が起きたら予め考えていたcontingencyに切り替えろよ
●いい話にはとことん疑いを持ってかかれよ
●「短絡」や「思い込み」は怖いよ、組織がギクシャクするよ
●だから、筋道を立てて、堂々巡りのない、論理的な考えを身に付けろよ ……
グローバル化の日本でも、今こそ「シンク」ではなく、“THINK”への対応が必要なのである。
人は一般的に、自分でものを考え、自分で決めて行動を起こしたいと思っている。その「ものの考え方」を教えることが教育の中心課題である。
ところが、戦後の日本独特の「知識偏重」教育は、自主的かつ理性的にものを「考えること」を封じてきたのではないだろうか。子どもから「考えることの歓び」を奪い取ってきたのではないだろうか。
「考えること」とは、知識を要領よく覚えることだろうか。如何にうまくやることだろうか。如何に楽をすることだろうか。楽をして金を儲けることなのか。相手を出し抜くことなのか。不正に手を染めることなのだろうか、犯罪からうまく逃げおおせることなのか。
「考えること」の楽しさを、小さい時に身に付けさせないと、その場限りの衝動的な行動を誘発するのではないか。
人は誰でも自分で行動したいと思っている。その行動の前に、「考えること」を促すのでなく、「答え」を与えてしまったら、どうなるだろう。「仕事をサボるとクビになるよ」、「勉強をしないと、いい学校にいけないよ」、「不正を隠蔽すると大きな問題になるよ」。これらの根っこは同じである。ある行動に対しての結論を知識として先に示してしまっているのだ。
「サボる」とどうなるのだ? 「勉強をしない」と、CONSEQUENCE(その結果)はどうなるのか? 「不正を隠蔽する」と、何が起きるのか? このような単純な道理に対しても、最初から答えを用意してしまっている。その結果、「考える」感覚が、麻痺してしまっているのが、現状ではないか。理性を持って、論理を持って考える行為をしないため、事態の重要性やCONSEQUENCEの認識も鈍感になっているようだ。
結局、「考えること」ができなくなっているから、ものが決まらない(意思決定ができない)。決まらなければ、行動は起こせない。行動しなければ何も変わらない。何も変わらなければ、進歩や前進、発展もない。このマイナスのスパイラスを誰も傍観していていいとは思わない。先送りの連続では組織も国も持たない。
そこで、自分でものを「考え」、「行動」し、「成果を出せる」人材を育成しようと、教育制度は改定された。ただし、具体的な目的も設定せずに「ゆとり教育」の導入に短絡したため、成果どころか基礎学力までも低下させてしまった。
ところで、「自分で考える」とは、どういうことだろうか。それは、「直面する状況の現象ではなく、本質を見極めること」ではなかろうか。その上で「自分は何をするべきかを、決めること」により、「意思決定」が可能になる。
すなわち、「組織の中でとんでもない事が起こりつつある」という現象をことさらにあげつらうのではなく、
①この現象(行動)を容認すると、どのような結果になるかを想定する
②致命的な結果が起こる可能性と、起きた場合の影響を考える
③その現象(行動)以外の複数の選択肢を考える
④選択の根拠を示しつつ、最良の選択肢を選ぶ(決める)
⑤その方法を選んだ場合にどのようなマイナスが考えられるかも想定する
これが、いわゆる「考える」という行為であり、よく本質を見極めた理性的な判断であり、「意思決定」を可能にするプロセスとなる。
例えば、違法行為をしなければならない境遇に陥った場合。判断業務の本質は、「相手に与えられた選択肢を行使するかどうか」という、レベルのものではない。「違法行為の結果どのようなことが起こるか」や「起きた場合の影響」を想定し、「命令された行為以外の複数の選択肢」を自分で考え、「それらの中から最適なものを選定すること」こそが、「意思決定」の本質といえるのではないか。
やや難解な話になったが、「意思決定」のプロセスをコンパクトにまとめると、
①現象(行動)に対する結果の想定
②結果が起こる可能性と起きた場合の影響の想定
③複数の選択肢の想定
④最良の選択肢の選定と根拠の提示
⑤選択肢のマイナス要因の想定
ということになる。このポイントをベースに考え方を整理すれば、困難な状況でも、ものごとを決めることができ、さらには、行動を起こし、変化、発展につなげられる一助になるのではないだろうか。