精度不良の製品はクレームが付いて、すぐ返品される。工場で不良部品が発生すると、生産活動はストップし、大きな問題として責任者が対応する。目に見える現象に対してはこのように対処がなされ、問題の原因が究明され、再発防止の対策も講じられる。すなわち製品の精度のバラツキには大きな関心が払われ、これを改善するために経営資源が惜しみなく注がれる。
製品の精度については、まず、材料品質が吟味され、さらに、どのような方法で加工されているか、どのような「道具」が使用されているかが検証される。この場合の「道具」はすべて目に見える作業に関連するものであり、「道具」そのものを目視で確認できる。改善も工夫も容易である。目に見えるからである。
一方、目に見えない意思決定の「不良」はそれが発生してもあまり問題にならない。製品に対する不良のように、誰もすぐには迷惑をこうむらないし、それが大きな問題にならないうちは、傍観するほうが波風は立たない。
そうする方が無難。チームワークも乱れない。目に見えないから問題視する声も出ない。また、大きな社会問題になっても、意思決定の「不良」は責任を追及されない。マスメディアの前で謝罪劇を演じる必要もない。
戦後しばらくはこれでも経済は回った。高度な成長も成し遂げた。しかし、節目が訪れる。バブル崩壊前後から、ものづくりで世界をリードしてきた日本に陰りが出てきたのだ。そして、その状況は今より悪化しているといえる。
理由は何か。開発技術や生産技術、さらに日本人の能力が劣化してきたのだろうか。本質的な問題はそこではないだろう。意思決定の「不良」を解決せず、先送りしてきたことこそに問題の本質はあるのではないだろうか。
ところで、意思決定という、いわば「問題に対するベストのソリューション」を選定する場合、その精度の良し悪しはどこで左右されるのだろうか。例えば、意思決定がある案件に対して最適の選択肢を選ぶことであるならば、その精度を決めるのは、選択肢自身なのか、選択肢を選ぶ作業なのか、それは定かではない。
では、違った角度から見てみたい。人は不適切な選択肢を、何故選ぶのだろうか。カレーライスが効率よく作れても、味がマズい場合もある。何故そうなるのか。また、社内の切れ者が天才的な閃きで考えた新しい組織も、実施してみると、不評であちこちに齟齬が出てくることがある。画期的な新製品を開発して販売してみたが、思ったように売上げが伸びないこともある。なぜ、このような現象が起こるのだろう。
それは、意思決定の精度、すなわち「品質」が悪いためである。では良い品質の意思決定をするためにはどうすればいいか。
残念ながら特効薬はない。ただし、長期的な目で見れば、品質を向上させることはできる。それには、「最適な結論をもたらすための考え方(分析)を標準化」し、「それをマネージする方法」を獲得することが必要となる。そして、その原点は、結論に至る個別のアイデア(考え方)が、なぜ必要なのかを考慮し、その思考を身に付けることである。
カレーライスの料理の段取りを例に見ていこう。料理法がいかに理路整然かつ合理的であっても、その理由を考えなくては自分のものにならない。例えば、「なぜこの温度調整なのか」、「なぜジャガイモを煮込む前にタマネギを炒めるのか」、「人参と鶏肉の相性はどうなのか」など。
意思決定の精度を上げるには、考えるプロセスを論理的な手順に並べるだけでは不十分だ。それでは単なる知識にとどまり、智力にはなり得ない。なぜその過程にその考え方があり、必要なのかを熟慮する。そうすることで、智力となり、スキルは自分のものとなる。
つまり、意思決定の精度を追求し、自分も組織も適切は判断業務ができるようになるためには、思考のプロセスを超えた原理を考えることが最も重要となる。
「なぜ、意思決定には選定基準が必要なのか」、「なぜ、選定基準を分類しなければならないのか」、「なぜ、問題が発生した時の具体的な現象に対してセーフティーネットを事前に用意するのか」、「なぜ、その作業をその時点でするのか」――。
それらには明らかな根拠がある。そこを見出すことこそ、「意思決定」の不良を改善する原点だということを、胸に刻みたい。