論理的な思考法のコツの1つは、「目的と手段を同時に考えないこと」である。我々は意思決定をする際に、どうしても「手段に短絡する」クセがあることを自覚したい。
例えば、何か決める状況があったとしよう。企業であれば、「組織の統廃合案を決める」や、「大型設備の発注先を決める」などである。個人であれば、「住宅を購入する」、「長男の進路を決める」など、さまざまな状況が想定される。
上記の状況で、手段に短絡するということは、組織であれば「最適な組織を作り上げる」、
設備であれば、「実績のあるA社か、B社のどちらにするか協議する」、住宅であれば「Aマンションにするか、Bマンションにするか話し合う」、進学であれば「入学の可能性があるA大学かB大学のどちらに進学するか検討する」となる。
本題の「目的と手段」を同時に考えて、満足の行く結論が得られれば、論理的な考えは不要である。しかし、多くの場合混乱や堂々巡りを繰り返し、意見の対立を招く。
長男の大学進学のケースを考えてみたい。親は「A大学」を薦める。本人は考えがまとまらない。教師は「B大学」がよいと言う。この「A大学」、「B大学」のどちらにするかという発想自体が、手段や選択肢への短絡なのである。しかも面倒なことに、本人は考えがまとまらない。このようは状況を論理的に「捌く」ためには、「何を決めるのか」を整理してみることが必要だ。
「長男の進学する大学をどうするか」であれば、「大学を選ぶこと」が決めることとなる。これを目的に設定することが一般的かもしれない。ところが、これで大学を決めても、問題の解決にはならない。何しろ当事者である長男は「考えがまとまらない」である。本人は大学進学を躊躇しているのかもしれない。大学以外の選択肢を模索しているのかもしれない。
そうであれば、発想を転換しなくてはならない。つまり、4年間で何を達成するのかという、「目的」や「目標」を考えるのである。その際、「どの大学に進みたいのか」という「手段」に関する発想は禁物である。「4年間で何を達成するのか」という「目的」を考えることが合理的である。
「自分の手で金を稼いでみたい」、「社会生活を体験したい」、「○○の経験がしたい」、「自分を鍛えてみたい」、「将来なにをするかを決めたい」、「自由が欲しい」――。一見矛盾するようなことでも、本人が達成したいことであれば、それを「目的」として、実現する「手段」を考えなければならない。
「海外留学・研修」、「アルバイト」、「NGO活動」、「無銭旅行」、「農業従事」、「専門学校」、「大学進学」、など、さまざまな選択肢が考えられる。これは、1つの考え方を示したものであり、必ずしも現実的でないかもしれない。しかし、ものごとがなかなか決らない時には、「目的」と「手段」を分けて考える。そして、「手段」の前に「目的」を設定することが論理的で、賢いアプローチなのである。
英語で対等にコミュニケーションができないアジアの国として、中国、韓国、インドネシア、タイ、日本が挙げられていたのは10年以上も前の話である。
では、最近のアジアの状況はどうか。実はビジネネス英会話力において、日本以外の国のレベルが飛躍的に向上した。アジアは一変したのである。例えば、米国のCNNでは、シンガポール、香港、韓国、フィリピンが母国のアナウンサーが活躍している。一方、日本人のアナウンサーは1人もいない。
さすがに、日本の外務省は英会話に堪能な外交官を輩出している。しかし、国際会議などで積極的に発言する日本のビジネス人は少ない。国際社会で日本からの発信が聞かれなくなり、その存在が見えなくなり、中国、韓国、シンガポールなどの独壇場になっていることはいかにも残念である。これに特効薬はない。
本場の英語を、「聞き流す」だけで英会話力が身に付くという英会話の学習法がある。確かに英語の雰囲気に慣れることはできるだろう。だが、会話力が付くかどうかは疑わしい。
結局、基本を根気よく暗記して自分のものにするという原点しか答えがないかもしれない。
そこで、あまり注目されていない方法を2つほどご披露したい。
1つは、自分が表現したいことを、自分の現在の英語力で英訳し、それを、とことん暗記することである。英訳された文章が文法的にどうであるかは心配する必要はない。誰かに添削をしてもらう必要も必ずしもない。英会話は「しゃべる」ことであるから、発信しなければならない。それは、自家製の英語でよいのである。自分の「身の丈にあった」英語でよいのである。
もし通じなければ相手は質問するだろう。その質問がわからなければ、逆質問をすればよいのである。自分のレベルやニーズに的確に合致したテキストなどは存在しない。だから、自分で作るのが一番の近道なのである。
もう1つは、英会話は相手をして、語らせることが基本であり、それには自分で事前に「質問」をいくつか作り、それを、とことん暗記して、流暢に発信できるまで訓練することである。ここでも、文法は問題ではない。「XXについて、あなたの意見を聞かせてほしい」、「それ以外の方法を考えてくれませんか」、「なぜ、このことに同意しないのですか」、「山田さんはこのことについてなんと言っていますか」などを、自分の英語の質問として創作するのである。
いずれにせよ、成人にとっての英会話では、英語を母国語としている人の猿真似はしなくてもよい。「th」の発音は、「ZA」でもよく、また、「SHI」でもよいのである。例えば、“I don't sink she is my mazar”.と発音して、あなたの「th」の発音は間違っていると指摘されることはない。要は意志の疎通ができればよいのである。
米国駐日大使に内定したジョセフ・ナイ氏は、昨年12月の日経新聞主催の「米新政権と日米同盟の課題」というシンポジウムに講演者として出席している。筆者もそのシンポジウムに招待され、参加することとなった。
ご存知のように、ナイ博士は『ソフトパワー』という著書を世に出しており、その中で、ハードパワーとソフトパワーがバランスよくマネージされる状態を「スマートパワー」と呼んでいる。ハードパワーは軍事力であり、ソフトパワーは圧力や強制的な手段を使わずに相手との合意を取り付ける力と、筆者は理解している。
このソフトパワーの考えの延長線上に、日本の外交戦略があるのではないかと思う。日本は憲法9条があり、唯一の被爆国という事実があり、非核三原則を標榜している。これをソフトパワーとして活用することで、国際社会に対して新しい次元の発信ができるのではないかと考えている。
防衛省は、Department of Defenseである。憲法9条下の防衛省の機能は、武力による自国防衛と同時に、ナイ博士が言う、ソフトパワーと組み合わせることが、理想ではなかろうか。それが実現すれば、日本の防衛費は、軍事力強化のみに使うのではなく、ソフトパワー強化にも充てられる。具体的に言えば、国際摩擦や紛争を解決するためのソフトパワーを研究し、確立するための費用を、防衛費の一部として位置付けるのである。これに伴い防衛省の概念も、従来のDepartment of Defense からDepartment of Peaceに発展的な変更できるのではないか。
このような発想を実行するためには幾多の問題があるかもしれないが、世界に類のないチャレンジとして、日本から発信できるメッセージとなりえるかもしれない。外交は外務省、防衛は防衛省という縦割りの発想を転換し、日本の国としての新しい防衛に対する概念を生み出し、世界に堂々と提示していただきたいものだ。
激動の時代を迎えるにあたり、新年のご挨拶を申し上げます。今後とも飯久保廣嗣のブログをよろしくお願いいたします。さて、新年最初のブログは、「日本の問題解決力」について、ひと言意見を述べたいと思います。
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前駐米日本大使で現プロ野球コミッショナーの加藤良三氏はある講演会で、「米国の強みの1つとして“問題解決能力があること”を認めなければならない」と、述べている。そして、チャーチルの発言を引用して、「アメリカは大事なとき、ここぞという時に正しい決断をする国だ。但しそこにたどり着くまでにはあらゆる間違った選択肢を尽くすところが問題だ」と、指摘している。
また、昨年、ある民放の討論会で、八代政基新生銀行社長は、「日本経済再生のためには、
あるべき姿に対しての議論も重要だが、直面している問題を明確にして、先送りすることなく解決することも重要だ」と、提言している。そして、ソニーの創立者の一人である盛田昭夫氏は、「日本はプロブレム・ソルビング(Problem Solving)の力をもっとつけなければならない)と、生前に度々言われた。
学者、識者は、現状に対する論評やあるべき姿についての議論はなされるものの、具体的な問題解決の議論はなされないケースが多いのではないか。すなわち、
・あるべき姿と現実の間にある諸乖離や諸ギャップを見出す
・それらを克服し、目的を達成するための諸解決策を考え、そのなかからベストの選択肢を選ぶ
・それを、八代社長が言われるように先送りする事なしに実行する
・その際、実行した場合に起こるかもしれない諸問題点を想定し、諸対策を予め講じておく(問題が起きてからどのように対応するかを論じるのでは遅い)
などのアプローチやプロセスが欠落しているため、日本ではここぞの正しい判断ができず、問題解決が遅々として進まないことが多いのである。
「日本はアメリカの言いなり」と未だに言われる理由にも、日本が問題解決者としての主体的な提言や、日本独自の問題解決に対する選択肢を提示していないことが、その背景にあるのではないだろうか。米国や世界社会の日本への要求に対し、いたずらに“NO”、“NO”の繰り返しでは、問題解決者として同じ土俵に乗ることはできないのである。