飯久保廣嗣 Blog

日本における論理思考の発展は、KT法(KT=ケプナートリゴー)、EM法(EM=“Effective Management”)の歴史と歩みを同じくしていたといっても過言ではないだろう。この場合の論理思考とは、プロブレム・ソルビングに対する実践論理のことであり、形式論理とは一線を画する。

この実践論理は、C.H.ケプナーとB.B.トリゴーが米国のシンクタンクであるランドコーポレーションで、組織開発に携わっていたことにより、まとめられたものである。この両氏は社内のマネージャーを観察して、プロブレム・ソルビングに長けている人と、平均的な人の差が大きいことに気づいた。そこで両氏は2000人の管理者にインタビューし、できる人間のエッセンスを抽出したという。しかし、それで満足が得られなかったので、数多くの会議を参加し、優秀な人間がどのように論議を展開するかを、さらに観察し、KT法ができあがったということである。

そして、このKT法は“The Rational Manager”という一冊の本にまとめられた。日本でも、『管理者の判断力』という、今では古典的な問題解決に関する翻訳本となっているものが出版された。この訳本は当時かなり注目を集め、様々な研究会ができたと聞く。ケプナーとトリゴーは1958年に共同でKT社という会社も設立し、米国でKT法をGMやフォード、GE、IBMなど優良企業に展開し、高い評価を得ていったのである。

一方、日本国内では、1969年、KT法の第1回目のセミナーが外資系企業の外国人幹部を対象に、上智大学の国際部の主催で、開かれた。当時私は、国際部の非常勤講師を務めていた関係から、このセミナーに誘われ参加。講師は、R.バンスティーラントであり、英語でそのセミナーは実施された。

当時の私のKT法に対する関心事は、「国際コミュニケーションを図る上で、英語力以外に何か必要なものがあるのでは」ということであった。そして、このKT法が、まさにその解答となったのである。つまり、問題解決の思考のベクトルが合わなければ、国際コミュニケーションはスムーズにできないということである。

その後私は1972年に、100%本社出資の会社として、国内でケプナートリゴー(日本)を設立し、グローバルなスタンダードとしてのKT法を、日本に取り入れた。米国の本社は、米国系日本支社への展開を指示したが、私は、日本の代表的な企業で評価されない限り、国内での展開は困難であると判断した。そこで、日立製作所、日産自動車、第二精工舎(現エプソン)に持ち込み、その展開に成功し、高い評価を得たのである。

それ以後、全社的に導入を図ったのが本田技研工業であった。ホンダはトライアル研修で評価をした後、当時の河島喜好社長以下17名の全役員が受講。担当者に「もしホンダで採用するならば、次の3点を考慮せよ」と、河島社長は指示した。それは、①展開するならば一気呵成にやること、②実践的に展開すること、③元に戻らない仕組みを作れ、ということであった。

最終的にホンダへのKT法導入を決断されたのが、西田通弘専務(当時)であった。そして、初年度に、部課長クラス2000人の研修を社内講師を養成して展開した。その延長線上で、関連企業や協力企業にさらに展開していったのである。私はヨーロッパのホンダ現地法人社長及び幹部に対する研修の講師を務めた。副次的な効果は、当時社内のフランス人とドイツ人の間には確執があったが、この研修により、共通の思考プロセスを共有することが可能となり、その場で両国人が問題解決を協力して取り組めたことだった。

余談だが、西田専務がKT法の導入を決断されたときに、ホンダではKT法は必要ないといわれた。なぜならば、創業者・本田宗一郎翁は、「論理ないところに行動なし」という信念を持って、会社の経営に当たり、それが社内に浸透していたからである。しかし、私は「ラショナル思考はホンダにおいても、評価をするに値する思考ツールである」とアピールし、トライアル研修につなげ、その導入を果たしたのである。

また、大久保叡取締役(当時)は、ラショナル思考を評して、「ホンダはドブから這い上がるのはうまいが、ドブに落ちないようにする工夫にかけていた」と、言われたことを今でも鮮明に記憶している。これはリスクに対する対応が甘かったということである。ホンダが、この領域を強化することにより、経営資源のムダをなくすことにより、問題解決や意思決定のスピードと精度が多少なりとも、向上したといえるのではないか。