飯久保廣嗣 Blog

乱世の時代には国語が乱れる現象が歴史的にあったかどうかは別問題として、社会通念やルールにまで影響を与える「不思議な日本語」が横行している。そのなかで2つのことを取り上げてみたい。ひとつは「失脚」であり、もうひとつは「理解を求める」である。

安倍晋三元総理に対し特に恨みはないが、あのような経緯で国の最高責任者としての責務から離れた場合、その報道の表現のひとつとして「安倍晋三総理は失脚した」とあっても良いのではないかと思う。これに異論があるかもしれないが、少なくとも国際社会において最高責任者が納得できるような根拠がなく辞任することは、「失脚」と言われても仕方がない。

同じようなことは中川昭一元財務大臣にも言える。マスメディアはこぞってローマにおいての醜態を批判し報道した。この時点で、中川元大臣には誠にお気の毒ではあるが、政界から「失脚」したと海外の常識や社会通念は判断するのではないか。一方で、日本のマスコミは、性懲りもなくこれらの人物を再三登場させることに全く問題意識を持たない。特にテレビは視聴率を上げるために、時の人として何度も登場させる。このことのマイナスをよく考えたい。自国の恥を世界に積極的に売り込んでいるようなものである。

ところで、「理解を求める」という報道も横行している。例えば、わが国の高官が外交交渉において相手国との会談後、わがマスメディアは次のような表現を用いることが多い。「○○国の担当大臣に面談し、理解を求めた」という表現である。

常識的に考えると、下の者が理解を求めることはあっても、上の者が下の者に理解を求めるという発想はあり得ない。理解を求めるという発想は、対等な立場を放棄したと思われても仕方がないといえる。

欧米諸国に対して日本は理解を求める立場が過去にあったことは事実である。しかし、最近の報道をみると、ODAなどで援助している国に対してもわが政治家や政府高官が「理解を求めた」という表現があり、非常に気になる。

「理解を求めた」ではなく、本来の表現は、相手に対して「代替案を示した」「主張した」「協議をした」「要請をした」「撤回を求めた」などが適当ではなかろうか。

いくら何でも、北朝鮮との交渉で相手に「理解を求める」ということはないだろう。それ以外の国との交渉も同じ姿勢が必要だ。理解を求めるという意識がわが国側に少しでもあれば、相手国につけ入れられることになりはしないかと憂う。また、日本の報道が本国に報告される場合、「日本が理解を求めた」という表現を直訳される可能性が高いことも、非常に問題だ。国やマスメディアのこうした姿勢が、相手国との対等な交渉を困難にすることを、今一度真剣に考えることが必要ではないだろうか。