太平洋戦争終結の目的で、米国は8月6日に広島の原子爆弾を投下した。このことの日米における歴史認識は、米国側は戦争の早期終結により多くの人命を救う方法としてやむをえないものとしている。一方、日本側の結論は、未だに出ていない。
筆者は、2004年ごろ米国の原子爆弾に関する実施記録を見たことがある。それによると、第1回の実験は、1945年5月にネバダで実施された。第2の実験は、8月6日の広島であり、その備考欄には、「コンバット(実戦)」となっていた。
8月9日に第3の実験がなされた。これは長崎である。やはり備考には「コンバット(実戦)」と記録されていた。
戦争における異常な状況での原爆投下ではあるが、人類に対する非情な犯罪行為として、問題を解決しなければならない。また広島の3日後の長崎は「戦争終結」という理由では、説明できないだろう。これは、広島がウラン型の原子爆弾であり、長崎がプルトニウム型であったことが、その投下理由を如実に表わしているといえる。これは米国の識者も認めているところである。
もう1つ記憶するべきことは、8月8日である。それは、ソ連(現ロシア)が日ソ中立条約を破棄した日であり、翌日参戦してきた。条約がなぜ破棄されたのかの理由は別にして、我々はこの日を歴史的な日として記憶しておく必要はないのだろうか。なぜなら、この参戦により、北方領土問題など未解決な問題が発生しているからである。また、筆者の記憶が正しければ、ソ連はサンフランシスコ平和条約への署名はしてなく、つまりは対等な国家間のつき合いがなされていないともいえる。
サンフランシスコ平和条約には49カ国の署名があるが、その中にソ連の署名はない。これは、条約締結時に、ソ連の代表であるグロムイコ氏が日本に対する対処が寛容すぎるという理由から、退席したという事実がある。
そして、8月15日だ。現在、昭和天皇に関する書籍が多数出版され、関心を呼んでいるが、天皇は敗戦後の9月27日、マッカーサーを面会し、次のようなにいわれたと記録されている。
「戦争責任は自分が負う。どのような処分も受ける。その代わり、国民に食料を提供してほしい」――。
これは、天皇自身のお考えであり、周囲から進言されたものではない。なぜなら、周囲が天皇にこのようなことを言えるはずがないからだ。
日本人にとっての8月をどのように捉えるかは、個人によってさまざまだろう。筆者は、原爆に関してはいたずらに被害者意識を持たず、この事実からどのような建設的な発信が世界に対してできるかを、それぞれが考えてみてはどうか、と思っている。