日本中を覆っている閉塞感や自信喪失を心配する人は多いだろう。何となく生活が保たれているが、皆、それこそ、何となく危機感を持っている。この状況が長期化すると社会の活力は萎えていく一方である。
組織や個人の活力を取り戻す方法はさまざまだと思うが、筆者はそのアプローチの1つとして、日常生活に使われている平均的な言葉(ボキャブラリー)をしっかり定義することに活路を見出したいと考えている。
筆者は1980年代に米国の各都市を講演のために周ったことがある。その1つの都市であるミシガン州のデトロイトを訪問したとき、「権利」、「責任」などについて解説した初等教育用のテキスト(Wayne State University版)を入手した。
その中には子供として理解しておくべきいくつかのキーワードが記されていた。そして、驚くことに、そこには大人でも納得するような、実に明快な定義が記述されていたのである。
例えば、フェア(Fair)の定義である。日本語訳では、「正しい、公明正大な、規則にかなった」といった定義となっている。ところが上記の小冊子にはより具体的かつ本質的なことが書かれていた。「すべての人に同一条件を与えること」となっていたのだ。
つまり、それを実践的な形で言い換えれば、「条件を同じにして競争する」ということだ。スポーツに当てはめれば、技術が劣る参加者にはハンディキャップをつける、ボクシングやレスリングなどでは体重によって階級を設けて競わせる、などとなる。
ここで注目したいことは、日本的なフェアの定義、つまり「公明正大であればそれでよい」という考え方は国際社会では通じないということだ。好例が、日米の自動車摩擦である。当時、米国側が「日本はフェアでない」と非難した意味が我々にはわからなかった。日本は公明正大に企業競争をしているつもりだった。それを「なぜ非難されなければならないのか」。そんなスタンスが大勢を占めていた。
これに対し米国側は「競争条件を同じにして競うこと」を要求していたのだ。それを具体的な形でいえば、「日本企業が米国に工場を開設し同じ生産環境で競争しろ」ということになる。日本の自動車業界はその後米国のいう「フェア」な条件で戦い、勝利を得ることができた。
筆者が言いたいことは、日常的に用いる言葉や概念を国際的に通用する形で定義していくことにより、我々日本人は、世界を相手に競争する方法を見出すことができ、それを活力とすることができるのではないか、ということである。
例えば経営用語のおける「問題」と「課題」はどう違うのか。「目的」、「目標」、「狙い」、「ゴール」はどう違うのか。「選択肢」、「対案」、「代替案」はどう違うのか。そういったことについてあらためて国際的に通用するかどうかを意識しながら定義することで、その後に本質的で建設的な議論の展開が可能になる。「どうしたらいいかわからない」といった人が多い今、言葉の定義を見直すという根本的な作業は、実は有効なのである。
参考までに、デトロイトのテキストに記述されていた他の言葉の定義も以下に記す。
①政府(government)
日本語の定義は、「国家をおさめる機関。内閣と中央官庁」。一方、デトロイトの定義は「都市や州や国家の運営に関する諸事項をマネージする集団」となる。マネージとは単なる「管理」だけではなく、「物事を処理する、方向付けをする、規制する」など問題解決という概念が含まれていると筆者は認識している。
②権利(Right)
日本語の定義は「一定の利益を主張し、またそれを受けることのできる法律上の能力。ある物ごとを自由になしうる資格」。一方、デトロイトの定義は「個人に当然与えられるべきもの」となっている。