我が鳩山総理が提唱している「友愛精神」について、国民や世界に対して、その概念や定義を明確にする必要があるのではないか。日本人でさえその言葉の本質を理解している人は少ない。
例えば、広辞苑によると、友愛とは「友人に対する親愛の情」とある。また、「親愛」とは、「親しみ愛すること。人に親しさを感じ、愛情をいだいていること。」となっている。これを読んで、その基本的な概念を読み取ることは難しい。このことが、国際社会において混乱や誤解を招かないように、念ずるものである。
ところで、友愛の英訳について、悩んだ結果、友人の小笠原俊晶ジャパンタイムス会長の秘書を務めるロードさんに聞いてみた。ロードさんは、「文脈によって、英訳は異なる」といい、“friendship”、“comradely”、“fellowship”、“affinity”、“brotherhood”など、様々英単語を挙げた。
和英辞書によると、Fraternalismという英単語も見られる。鳩山総理が言う、「友愛」がFraternalismを意味するのであれば、WEBSTERR’Sの定義によると、「精神的なつながりによる友情、同じ信条を持つ人々の集まり及び職業的つながり」となっている。
この「友愛」を発信することは、大きなメッセージとなることは間違いない。しかし、このことは、意思の表明である場合と、行動する場合とでは、基本的に異なることを認識したい。後者の場合、国家間の友好関係は、関係国がお互いに同じレベルでその気持ちを持たなければ成立しないのではないか。
例えば、相撲の立会いを考えてみる。両者が同じ緊張感を持って、同じ土俵で環境が整い、対峙しなければ、事は始まらない。ということは、友好関係はタイミングと双方の思いが一致することなくして、確立できないと思われる。
わが国が世界に対して、「友愛」を発信することは大いに結構であるが、相手に対して「くみしやすい」といった誤解を与えないようにしたいものだ。外交関係は、友好的で、平和的な姿勢が必要な一方、相撲で言えば「勝負」であるという側面も持つ。
さらに、相撲にこだわってみれば、外交で使える様々な心構えや行動規範が見えてくる。例えば、相撲にはハンディキャップも重量制もないことも、国際社会で発信する際の本質を示唆しているのではないかと思う。相手の大きさや力関係も、相撲の精神を用いれば、克服できる可能性があるということだ。
また、決着がついても、相撲では、勝者はおごらず、相手に対する配慮をし、敗者は相手に憎しみを持たないことが原則。これも交渉事での姿勢として活用できる。
このような日本固有の考え方や文化とともに、「友愛」を国際社会に対する参考として供したいものである。単に友愛を唱えるだけでは事が進まないことは、対中、対ロの外交がよい証左となっているかもしれない。一人相撲は滑稽に見えるといっては言いすぎだろうか。
今月のはじめ、私は母校の理事会に理事として出席するためにアメリカを訪れた。現地で印象に残ったものの1つは、急激に増える中国製品の存在である。「世界の工場」と言われている中国からアメリカ社会に供給されている中国製品―Made in China―が確実にアメリカ社会の一部になっていることが近年の大きな“Change”だと思った。
Made in USA製品をアメリカのショッピング・モールやデパートで探すことがいかに困難か。毛皮製品からカシミア製品、そして電気機器などの精密機器も多くが、Made in Chinaである。
この事実を時代の流れとして容認することが自然なことなのかもしれない。しかし、私は問題意識として捉え、なぜこのような状態になったかを考えてしまう。
中国は外貨準備高が世界1位であり2010年には日本を抜いてGDPが第2位となることはまず確実だ。また、その経済力を背景に海軍が増強され、自前の航空母艦を建造していることも周知の事実である。一国が自国の繁栄を目指すことはごく自然である。中国はこうした国としての前進を、市場経済システムの導入により実現した。
実態としては、資本の原理が市場経済という美名の下に米国の企業により展開され、中国を経済大国にした。その過程には、儲けることだけを目的とし、倫理観、社会性、人間性を無視した企業行動も見られる。そうであれば、今後資本主義そのものが、中国という未だに共産主義国であり、国家統制下に置かれた国家に、その根本を揺るがされる事態を招くかもしれない。
欧米では、資本主義の根本にある「プロテスタンティズム」の思想が企業倫理を育てた。これは、企業と経営者が当然持っているべき精神だ。また、日本においても家訓という行動規範があり、昔の住友家の家訓「我住友の営業は時勢の変遷理財の得失を計り弛張興廃することあるべしと雖(いえど)も苟(いやしく)も浮利(ふり)に趨(はし)り軽進すべからず。」はその代表的なものである。
これらの観念が今日失われたことが、金融危機に端を発する世界同時経済不況の原因であるならば、真の資本主義を復興するために再考しなければならない。あれだけの経済力を持つ中国がアフリカで資源外交をするものの、ODAを展開して、途上国を援助するという話は聞かない。これは、中国では企業や国が社会的な責任を果たすという観念が希薄だからかもしれない
いわゆる“GREED”な企業経営者が合理と利益のみを追求し、今日の世界同時金融危機を生み出した。その結果、先進国が不況に陥り、中国が経済発展をしている。このままでいけば、米国にMade in Chinaの車が走ることになるだろう。
合理性を追求して利益を出すことのみが、市場経済のすべてであれば、企業の社会的責任や企業倫理はいらない。社員の福祉もいらない。社会正義もいらない。その結果、秩序のある資本主義社会は崩壊することになるかもしれない。
企業は儲けるために手段を選ばないことになる。それに対して政府が社会や市民を守るために規制や法律を作ることになるが、市場経済はボーダーレスになっており、有効に働く確証はない。そもそも世界社会で有効な規制などあるのだろうか。
1991年にソ連が崩壊し、自由主義陣営が勝利した。ところが、資本主義が儲けるためには手段を選ばないという風潮がこのまま続くと、中国という共産国家が米国や自由陣営を席巻すると言う皮肉な事態になるかもしれない。
ところで日本には江戸時代から商人道といった規範があった。だが、日本から日本人の手で日本の知恵を外国に発信した例は少ない。真の資本主義を持続させるためにも、ここらで、日本がイニチアチブを取り、西洋と非西洋が融合した新しい資本主義に対する概念や行動規範(法律や規制ではない)を世界に提唱したらどうだろうか。
戦後の日本を救った米国
1945年の太平洋戦争敗戦直後、米国は戦後のわが国に対して、総額二十億ドル(当事の為替レート換算で7,500億円)という膨大な援助を実施した。
これら援助は、ガリオアおよびエロアと呼ばれ、国民を異常な食糧難と飢餓から救い、今日の経済復興を遂げ得る基盤を築くことができた。当時の米国の敗戦国に対する寛大は処置を忘れてはなるまい。
ちなみに、旧ソ連のグロムイコ外相はサンスランシコ平和条約締結に、日本に対する処置が寛大であると言って、不満を表明し、調印式から退席したことも忘れてはならない。
もっとも、このガリオアエロア資金に対して返済要求が米国政府より日本になされ、1954年に両国間で協議がなされ、その使途は両国の教育交換計画など教育投資に使われるとされたが、賠償問題も解決されず、結局曖昧に処理されたようである。
しかし、米国は戦争賠償の要求を放棄した。そして、当時の蒋介石中国政府も戦争賠償を放棄したことが歴史の事実としてある。ちなみにヨーロッパに対するマーシャルプランは西ドイツ(当時)を中心に当事者間の協議の結果、一部が分割方式で米国に返済された。
また、1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約締結の直前の1950年、当時のダレス国務長官が来日し「米国と日本は勝者(Victor)と敗者(Vanquished)の関係ではあるが、完全な対等な関係(Completely on Equal Basis)で、平和のために両国を含む連合国との関係を修復する」と演説していた。
国際社会が注視する“日米”と“日中”
前置きが長くなったが、ここから本題に入りたい。このたび発足した鳩山政権の外交政策を見ると、こうして我国と米国が築いてきた歴史的な信頼関係をどのように評価しているのかが心配になる。
日本が国家として存続するためには、日米同盟が不可欠である。勤勉な国民性やボランティア精神、人権に対する考え方、そして民主主義という多くの共通点があり、信頼関係の基礎がある米国との同盟関係は日本外交の基礎であることを忘れてはならない。
日本が米国との強力な信頼関係なくして、長期的に中国や韓国と対等な同盟関係が確立できるのか、その可能性を考えてしまう。果たして、現実的なのだろうか。
また、戦後64年の日米関係から我国は多くの恩恵を受けた。また、日本も米国の外交政策などに協力してきた。この協力・友好関係を「米国に依存しすぎてきた」と言って、米国と距離を置くという発想は、果たして国際社会が評価することになるのだろうか。真の友人関係というのは相手が困っているときに親身になって相談に乗る関係ではないだろうか。
中国が大切であると言って単純に日米関係ウエイトを下げる。そしてその分中国とアジアに軸足を移し、対等な立場で信頼関係を確立しようとする。このような日本の考えを、国際社会はどう見るのだろうか。そして、米国はどう考えるのだろうか。
まだまだ、政治制度、倫理観、人権問題、言論統制、共産主義体制、国際外交における経験不足、国家理念などが異なる中国と、対等な立場で信頼関係を確立できるのだろうか。
一番気になることは、中国が、「井戸を掘った人の恩義を忘れない」という考えを持ち、実践していることである。日本が米国から受けた恩義を忘れて、日米の友好関係を軽視している傾向を中国の指導者がどう見るかである。
中国の指導者が、日本は米国との友好関係を利用するだけ利用して、情勢が変わったからと言って恩義を忘れる軽薄な恩知らずの国民性を持つ国であるとでも考えられたら困る。日本の国益とはこのようなところにもある。
西郷翁の遺訓から学ぶ外交の本質
このことは日本と日本国民の威厳と威信に関わることではなかろうか。前にも述べたが、ここで、西郷隆盛の遺訓を紹介したい。
正道を踏み、国家を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽蔑を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん。
少し解説をすると、
人間社会・国際社会の普遍的な正しい道を歩み、国家として全力投球をしなければ、外交は成功しない。相手が強大である事に萎縮して、うまくいくことを重要に考えて、相手の意見に従ってしまうときは、相手から軽蔑され、友好関係が破綻して、最後には相手のコントロールを受けることになる。
この遺訓を生かすことが、相手と対等に渡り合える条件ではないだろうか。
日本の外交政策もこのような歴史からその本質を学びたいものである。西郷が国賊の汚名を受けたことは事実ではあるが、それと同時に、明治の大人物として国のために尽くした歴史上の大先輩であることも覚えておきたい。
これは、筆者が昭和41年にダイヤモンド社から出版した『外人コンプッレクス』から引用した。古くは、明治の思想家、宗教家、教育者の内村鑑三が『余の尊敬する日本人』で紹介している。
鳩山政権の外交姿勢を論理的に分析すると、ある政策を採用した結果、どのようなconsequence(そのことを実行したら、どのような複数の結果が起こりうるか(プラスとマイナス)の想定)と対策が充分になされているかということである。単なる思い付きやある特定の人間の影響から短絡的に政策を策定し、展開することも危険なことである。
友好は結果であり目的ではない
話を鳩山新政権下の日米関係に戻そう。鳩山総理の外交ブレーンにどのような人物がいるかは知らない。しかし中国重視を進言する人は、国家間の同盟関係は、両国が相互にその必要性を認識しなければ成立しないことを、どのくらい認識しているのだろうか。
そういう点で、果たして、中国が日本と同じレベルで両国間の信頼関係を構築しようと考えているのだろうか。中国側の日本に対する優先順位は日本のそれと比べてかなり低いといわざるを得ない。中国にとって、もはや日本は眼中にないと見てよい。当然、中国が相手にする国は、中国より進んでいる米国である。
このような地政学的な状況の中でこそ、西郷翁の「曲げて彼の意に従順すると軽蔑を招き」を心したいのである。両国の「国人」の間の交流・友好は促進する。しかし、政府間の関係は友好よりも緊張の連続と考えたほうがよい。友好関係の確立は結果であって、それ自体が目的にはならない。問題を関係者が満足する状態で解決する結果、友好関係が確立されるのではないだろうか。
問題解決には政治的な判断、外交に関する経験とともに、論理的な思考様式が必要なのである。物事が感情的にこじれてきた時に、それを解決する力は理性でありABILITY TO REASONなのである。
今回も、筆者の新刊『組織で使える論理思考力』(日経プレミアシリーズ)の内容から、話題を提供したいと思う。
さて、日本では組織や個人の論理的な思考能力があまり向上していないといわれているが、それはなぜだろうか。筆者は「論理のみで動かない日本の組織では、論理思考力は役に立たない」という印象を持たれている人が多いことが、主な背景ではないかと思っている。そのため、学習や教育も深まらず、実践にもあまりつながらない状況になっているのではないか。
そういった印象を持つ原因にはいくつか思い当たる節がある。まず、個人も組織も「論理思考は短時間で身につけられる」という、安易な期待を抱き、その期待が裏切られ続けたのではないか。筆者の反省点でもあるが、教材や研修の内容を改善する余地はあっただろう。
また、論理的思考プロセスのステップを、単なる「知識」として理解すれば、即座に実践できるという「錯覚」もあったのではと思われる。それは不可能である。論理思考についての「知識」をいくら学んでも、その思考法の「根拠」を理解しなければ、実践的な場面では柔軟に使うことはできない。
例えば、意思決定において、「目的や目標を明確にすること」が必要であるといわれる。では、「なぜ、目的や目標を明確にしなければならないのか」と問われたら、何と答えるか。
この「なぜ」がすなわち「根拠」なのである。この問いに対する答えは、「意思決定において、ある案を選定し実施した場合の狙いやアウトプットを事前に設定することが重要なため」ということになる。
また、「その決定の制約条件(人・モノ・カネ・技術・情報・時間・場所など)を明確にする必要があるが、それはなぜか」と問われたらどうだろうか。答えは、「これらの項目は、結果的に複数選択肢を選定する場合の判断基準、いわば“ものさし”になるから」となる。
答えはこれだけではなく、根本的な考え方や思想、立場、状況によって若干変わってくるだろう。重要なのは、ここまで深く「根拠」を考えることである。それによってはじめて、実践的な場面での活用が見えてくる。
論理思考における思考の手順には深い意味があり、その意味を理解することが、本来の論理武装の本質なのである。そして、論理思考の技術を身につければ、どのような局面でも、たとえばそれが不合理がまかり通る組織の内部ででも、十分に活用することが可能になるのである。
本では、組織において、どのように論理思考力を活用していくかを、詳しく述べている。それは、従来のツールや関連本が役に立たないと感じられた方々も、理解し、納得し、実践できる内容となっている。ご一読いただければ幸いである。