最近気になる現象の1つが、社会を活性化するためにむやみに起業家の出現を奨励する機運があることだ。もちろん起業自体は否定されるものではない。しかし、問題は起業することが目的になっていることだ。本来なら、起業は目的を達成するための手段でしかないのではないか。
渋沢栄一や岩崎弥太郎という明治の大先輩は、会社を興すことが目的ではなかったはずである。目的は、日本の近代化を促し、産業を興すことであったと思う。その結果、多くの企業が誕生した。
また、シリコンバレーの起業家たちはわが国の起業家に比べてスケールが違う。例えば、2月24日に新製品発表したブルームエナジーという会社は、電力を生み出す「ブルームボックス」という画期的な電池を開発。米国ならばこの電池2個で1世帯分の電力をまかなえると報道されている。
GEやシーメンス、フィリップスなどの大企業の研究所から生まれたものではなく、ベンチャー企業が世の中に出したものである。インド生まれのCEOは、一攫千金という発想があったにしろ、企業を興すことが目的ではなかっただろう。化石燃料が枯渇する状況下で、どのようにして家庭に対して効率よく電力を供給するかという目的を追求する結果、この会社が起業されたのではないかと思う。
わが国においても起業を志す人々は、社会のニーズに対して新しい創造や価値観を統合するといった視点から起業を考えたらよいと思う。
私は、論理思考に関する仕事に34年にわたって携わってきた。当初はビジネス人個人に対し、コンセプチュアルスキル、つまり中国でいう智力(十分な知識がなくても問題解決ができる能力)、欧米でいうインテリジェンス(新しい状況に対してスピーディーに間違いなく対応できる能力)を展開してきた。
今までの実績を振り返ると、論理的な思考の究極の目的は、個人の能力アップや企業の生産性向上ではなく、わが国の経済全体に関わる問題ではないかと思うようになった。
リーマンショック以降の各国の回復状況を見ても、日本は大幅に遅れをとっている。さまざまな背景や原因があるにしろ、根本的な問題の1つが、政府や企業が行なう意思決定のスピードと精度にあるといえる。
また、最近の国際交渉を見ても、日本だけが交渉の土俵に乗り切れていないような気がする。このフラストレーションが何かを考えてみると、どうしても日本人の問題解決のアプローチが独特であり、世界的なメンタリティに合わないといわざるをえない。
よく言われる、韓国のサムソンがこれだけ企業としての実績を上げている背景は、国策企業ではあるというものの、重要案件に対する意思決定が速いということが既に指摘されている。
この意思決定のスピードは、中国やインドをはじめアジア諸国に共通であり、日本だけが蚊帳の外にある。この状況を放置すると、企業や国全体の競争力低下につながり、日本の国そのものの衰退につながるといったら言い過ぎだろうか。
この日本の現状を裏付けるデータがある。スイスの拠点を置くIMDが毎年発表している世界競争力年鑑を見れば明らかである。日本は2009年発表の総合で順位が上がったとはいえ、17位となっている。ちなみに2007年は24位まで落ち込んだ。IMDの順位を分析すると、順位が低下している背景が2つある。それは政府の効率性(Government Efficiency)とビジネスの効率性(Business Efficiency)が極端に低いということである。
今もって不思議なのだが、この現実について、政府も企業も学者も、ほとんど触れていない。極論をすれば、この領域の改善がなされない限り、日本の競争力が向上することは考えられないのではないか。
このEfficiencyの本質は言うまでもなく、意思決定の精度とスピードである。また、社会全体が躍動していない背景の1つに、リスクテイキングをしないことが挙げられる。
意思決定の精度とスピードについていえば、やはり問題から解決に至るまでの考え方の段取りが論理的であり、プロセスとして確立されてなければならない。ちなみに、政府の高官や企業のトップに「あなたはどのような考える手順で意思決定をされているか」ときいた場合、説得性のある回答が出てくるだろうか。日本以外の国では、責任ある意思決定者はこのプロセスを明確に意識している場合が多い。
また、なぜ日本ではリスクテイキングをしないか。それには2つの理由が考えられる。第1は過去に痛い目にあったことがあり、大きな責任問題に発展した事例があることにこだわることだ。このことが意思決定者の意識の萎縮につながる。
第2の理由はリスクそのものの実態を把握していないことである。実態の把握とは、潜在的に発生する数十、数百という現象を想定し、それらに対して対応策があるかどうかを見極めることである。現象とは、計画からのズレであり、起こりうる不利な状況であり、起こりうるダメージである。
よくいわれる「想定外」という表現が、わが国では安易に使われすぎている。むやみやたらに「想定外」という表現を使うということは、自身の将来に対する読みが浅かったことを開示しているようなものである。本来、「想定外」は、決定を実施する際に、数十、数百という将来起こりうる現象を想定して初めていえることである。
これらのことは、一企業や組織の問題にとどまらず、日本の社会全体の克服すべき課題として取り組む必要がある。それによって停滞している日本社会の現状を打破し、企業においては競争力強化を促進するための不可欠な要素となる。