飯久保廣嗣 Blog

2010年07月05日

唐突だが、第二次世界大戦後の識者が、将来の国の形やあり方について、語ったという話はあまり聞かない。つまり、米国に次ぐ経済大国を作ることが、日本のあり方であるという発想を、識者も国民も持っていなかったのである。日本は、爆撃で破壊された国を復興するという使命に対して、各自が持つ役割を、忠実に懸命になって果たした結果、経済大国になり得たのである。

そこで、先ごろ就任した菅総理に今後、「やめてもらいたいこと」を言いたい。それは、「美しい国日本」的な“国のあり方”を語ることである。理由は、この20年、学者や識者が、よって、たかって議論しても、「美しい国日本」程度の発想しか、出てこなかったからだ。

それよりも、我々もこの際原点に戻り、一人ひとりが自分の役割を忠実に果たすことに、全神経を注ぎたい。菅総理には、国民に向けて、そのことを発信してほしいのである。

例えば、学者や教育者は評論家としてテレビに出るのもよいが、一方で、情熱を持って、命を懸けて、一心不乱に生徒の人格を磨くことに専念する。彼らをよき人間として世に送り出すために、どうしたらよいかを、考え実践する。

つまり、世の中に役に立つ人間にするために、己は何をするべきか。生徒をして、物事に挑戦する気構えを持たせるにはどうしたらよいか。これを熟考し実践するのである。もう、「生徒の長所を発見して、伸ばすことが教育である」といった、スローガン(あり方論)からは決別していただきたい。

政治家も原点回帰をしていただきたい。「選挙に勝つことが目的」といった、サラリーマン的・ファミリービジネス的な発想をやめてもらいたい。そんな人が、軽々しく、「国益、国益」といわないでほしい。

政治家の本来の使命とは、国のために自己犠牲を払い、あらゆる困難を克服して、自分が情熱を燃やす「志」を達成することである。我々の先達も、「志あるところ、それを達成するために、自分の命も時間も省みることはしない」といっている。国会の聖なる赤い絨毯を蹂躙してほしくない。

官僚にも一つ言いたい。官僚の原点は「公僕」である。Public Servantである。「公」に奉仕する人々のことを公務員という。国民に、社会に、国に奉仕することが官僚の本分ではなかろうか。この原点回帰の精神がなければ、公務員改革など達成することはできない。この改革を推進するのが政治家であるのなら、政治家も、自分たちの本分は「公僕」であるという意識が必要である。

今回の参議院選挙で立候補者や政党から聞きたいことは、政策論や政治公約もさることながら、政治家は「公僕」であるという意思表示である。政治家はPublic Servantである。この原点をすべての候補者が持ってほしい。また、この自覚なくして、参議院候補としての資格はないのである。そう、「公僕」である。社会と国民に奉仕する国民の代表を選びたいものである。

政治家になりたいという想いは「志」ではない。Public Servantとなる「志」があってはじめて、「公」に奉仕できる政治家としての資格が生まれるのである。くどいが、Public Serviceが目的であって、その手段として政治に関るのである。政治家の「公」に対するサービスが極端に悪いこの国を革新できるのは、我々国民がどのように政治家の職務分掌を定義するかである。

先達が自分の使命を認識して、それに命を懸けたように、そろそろ我々も、自らができることから、全力投球したいものである。傍観から行動へ。もう、国のあり方を語るような、「評論家気分」は、やめにしよう。

また、メディアもこの国を再建するためのPublic Serviceを論じて欲しい。Public Entertainment「娯楽」だけでは国は成り立たない。

Public Serviceは崇高な事である。誰でもできることではない。自覚とCommitment(信念と自己犠牲)が必要である。

最後に宮沢賢治の詩で原点を考えたい。

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず

野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい

私たちはこのような原点を持つ人物を政治家として選び、国の経営を任せたいのである。この宮沢賢治の詩は、国際的に通用する日本人の本質を表わしているといっても過言ではない。