飯久保廣嗣 Blog

米国発の金融危機では、経営者の姿勢というものが改めて問われている。巨大な金融機関のトップや幹部が巨額の報酬を得ていることが問題となった。公的資金を受けているにも関わらず、その裏ではしっかりと自分たちの懐を潤わせる。その強欲な姿には、米国民のみならず、世界中の人々が、懐疑の目を向けた。

現在はその矛先が米国の誇りでもある自動車メーカーのトップに向かっている。移動でのジェット機の使用を取りやめたり、自身の報酬を大幅にカットしたりして、トップはその火消しに躍起になっている。最近では、退職後に莫大な年金をもらうことが明るみとなり、最終的に払うのかどうかにも衆目が集まっている。

これらは元をただせば、企業があまりにも「儲ける」ことに貪欲になった結果ということができる。つまり、あらゆる手段を用いてとにかく利益を上げることだけを考え、それに伴い、報酬が上がるシステムを作り、会社にも経営者や幹部にも、お金が怒涛の如く流れ込んでくるような仕組みを構築した。手段は、倫理的に問題があるものでも、それが「儲ける」ことにつながるのであれば、先を争うように採用していく。ついには度が過ぎ、抑制が利かなくなり、今回のような崩壊となった。多くの関係者が、こぞって英語で言う“greed”になってしまったのだろう。

ここで、思い出すのが、リコーの創業者である市村清さんが常々言っていた言葉である。それは、「『儲ける』ことではなくて、自然に『儲かる』ような仕事に手をつけるべきだ」というものである。

市村さんは、敗戦後間もないころ、明治神宮の宮司から、「神宮関係者が食べていけなくて困っている」と相談を受けた。そこで、「戦争で結婚できなかった方たちも多い。厳粛で簡素な結婚式場を経営されてみてはどうか」と助言し、自らが明治記念館を創立した。それは、敗戦で自信と希望を失った国民が多い中、日本が栄えた明治時代の象徴である明治神宮と大衆を結びつけることで、国民に奮起を促そうという想いを込めた事業でもあった。

こんなもったいぶったところで、式を挙げる人はほとんどいないだろう。そう、赤字覚悟で始めた事業。しかし、ふたを開けてみると、利用者が押し寄せ、開業早々黒字となったそうだ。そこで、市村さんは考える。自分が若い頃一生懸命儲けようと思ってやった仕事は、なかなか儲からない。だが、「儲けよう」というケチな考えからではなく、多くの人々の人生を祝福したい、国民に元気になってほしいという心意気から始めた明治神宮が逆に「儲かる」。つまり、「儲ける」のではなく、「儲かる」、「け」ではなく「か」を考えることが、商売の王道であると市村さんは悟ったのである。

振り返れば、米国もプロテスタンティズムを重んじていた国であり、元々は、勤勉、清廉などを規範としていた。だが、いつしか「け」に走る傾向が強くなり、それが今回の事態を招いた。今こそ「か」からの発想で、ビジネスの本質を追求したいものである。

なぜ日本は米国に追随・追従していると思われているか?

日本の対米追随・追従が言われて久しい。多くの原因の中で2~3の例あげると、その1つは日本人の意思決定の迅速性と精度が低いため、アメリカのペースとの間に大きなギャップが生まれるからである。日本側が分析をしている間に、米国側は結論を出してしまう。これが1つの原因である。

2つ目の原因は、日本人の意思決定に対する思考様式の特性である。特に、二者択一という発想から逃れることができないのが日本人の発想である。つまり、イエスかノーから発展しないのである。欧米がある件に対して意見を求めてきた時に、イエスかノーかでしか判断できない。本来は、決定事項の本質を考えて、新しい選択肢を提示しなければならない。

かなり前の話だが、ソニーの当時の盛田昭夫会長と現石原都知事の共著があった。タイトルは『「NO(ノー)」と言える日本』であったと思う。著者の本来の意図は、日本の意志を明確に米国に示すことであった。この意志の中には、当該問題に対して、「日本はこう考える」という日本の主張を相手に発信することも含まれていたはずだ。

10年ほど前に、ある日本の大新聞は、その年の正月に一面のトップで外国の首脳に、日本のあるべき姿について取材をし、それを掲載した。また、ある経済雑誌は、バブル崩壊後の平成不況の始まりのときに、米GE社の当時のCEOであったジャック・ウェルチ氏に日本産業界に対する提言を取材し、これも大々的に掲載した。このような日本のメンタリティは日本が主体的に自主的に意思決定をする姿勢を示唆していない。

3つ目の原因は、日本が世界社会で、「問題解決者」としての意識が薄いのでは、ということだ。これは積極的な国際貢献の第一歩である。方法や方策に短絡にて、金銭的な協力を国際貢献と考えるのは間違いである。経済的に小国であるデンマークは国際紛争に対して調停などで実績を上げている。

問題解決者は、米国のジョセフ・ナイ博士がいった「コンテクチュアル・インテリジェンス」と中国にある「智力」の概念を理解することが重要だ。すなわち、当該問題に対する十分な知識がなくても、全体像を把握し、本質をおさえ、問題解決ができる能力を重視し、その習得に努めることが肝要ということである。この概念が一時日本でも注目された「コンセプチュアル・スキル」なのである。

クリントン米国務長官が来日し、分刻みで日本の要人と会見した。これは日本における米国のイメージアップにかなり好影響を与えたと思われる。

最初の外遊先として日本を選んだことは、日米関係の重要性を確認する意味があり、これは歓迎すべきことである。日本のマスメディアもこの論調で訪日を評価している。

しかし、外遊の順序が日本→インドネシア→韓国→中国であることを思うと、単純に日本が最重要視されているという図式にはならないのではないだろうか。

オバマ政権が抱えている課題は、イラクとアフガニスタンの2つの戦争である。また、最優先すべきもう1つの課題は、米国経済の建て直しである。

これを踏まえた上で、シナリオを想定すると、中国が最後の訪問国である必然性が何かをどうしても考えてしまう。日本から戦争と経済に対する協力を引き出し、最大のイスラム国家であるインドネシアでテロ対策の検討をし、韓国でアフガニスタンへの派兵の可能性を打診し、それを携えて中国と最終的なアジアにおける安全保障と経済対策を討議する。このシナリオは、うがった見方であろうか。

一方で、米国の優先課題に対し、クリントン国務長官が日本にどのような協力を要請したかが、国民としては知りたいところである。マスメディアには、最低限、今回の訪日における各会見の主な議題ぐらいは、取材し、情報提供してほしいものだ。ただ単に、正確な行動スケジュールを追うのではなく、その背景に何があり、どのような意図や目的があったかを取材・分析していただきたい。そうでなければ、今回のクリントン国務長官訪日の真の意味を見誤る可能性があるといっても過言ではない。

それにしても、クリントン国務長官の絶え間ない笑顔や質素な服装は、米国の厳しい現実を踏まえた、実に見事な演出といわざるを得ない。このしたたかさも参考にしたい。

前にも触れた、米国駐日大使に内定しているジョセ・ナイ博士は、ソフトパワーの重要性を説いている。来日が決っているヒラリー米国国務長官もこのことに言及している。

ナイ博士はこのソフトパワー以外に、“コンテクチュアル・インテリジェンス”という概念を打ち出し、これが世界のリーダー達に欠かせない要件であると説いている。

これは定義が難しいが、あえて言うとすれば、「全体像をおさえて、物事の本質を見極め、適切な判断を迅速に行うための能力」といえる。この能力を我国の心ある政治家にも備えてもらいたいものである。

ところで、最近、オバマ米大統領の選挙キャンペーンに携わった人が、日本の経済界の米国に対する姿勢に危機感を抱いている。それは、どのような背景や理由があったにせよ、日本経団連のニューヨーク事務所が最近閉鎖され、これが、日本の財界人の米国に対するメッセージであるとワシントンで受け取られていることへの危機感である。

日米が協力して直面する金融危機と未曾有の景気後退を解決するためには、日本の財界のリーダーにも、ナイ博士が提唱する“コンテクチュアル・インテリジェンス”を求めたいものである。

ますます元気がなくなる日本で、「リスクテイキングを果敢にやれ」というスローガンがよく聞かれる。「リスクのないところに益なし」ではあるが、闇雲にリスクテイキングすることは、それこそリスクが大きい。リスクの単純な定義は、「起こり得る損害」、「起こり得る損傷」、「起こり得る損失」の3つとなる。3つの違いは、損害はDamage、損傷はInjury、損失はLossである。余談だが、機会損失はOpportunity Lossとなる。

リスクを取るということは、上記のような現象を想定して、それらに有効な対策を講じるという一連の行為を指す。リスクの取りっ放しではいくら経営資源があってももたない。リスクへの対応は、上記の損害、損傷、損失を起こり得る現象として想定することからはじまる。

例えば、金融商品を購入する場合では、損失が発生することがリスクになる。金融用語では、リスクヘッジといわれる対策を講じることになる。これは常識であるが、金融機関などは主に実施しているものの、個人では疎かになっているケースがほとんどではないだろうか。

また、株式投資も、リスクを取る際の一連の行為が必要となる。この場合、株式の相場の下落を予防する対策はない。したがって、株価が下落した場合の状態を想定し、どのような対応をするかを予め決めておくことが、リスクテイキングの重要な要素となる。

このようにただリスクを取るだけでなく、起きた場合の対策を含めなければリスクテイキングにならないのである。この場合の対策は、発生するかもしれないダメージやロスを最小限に抑えるための備えである。株式投資で言えば、持っている銘柄が○○%下落したときに、発動するコンティンジェンシー計画を持っておくである。このコンティンジェンシーは当然状況に応じて見直す必要がある。

日本人がリスクテイキングをしない背景の1つは、このコンティンジェンシーの発想が薄いからである。つまり、「問題が起きたらいけない」と考え、思考停止に陥ることにより、結果的にリスクを取らないことが安全と考えてしまうのである。例えば、株式で言えば、相場の下落を防ぐ予防対策はなく、上記のコンティンジェンシーの発想がないために、ますますリスクテイキングしないことになるのではないか。

もう1つは、「問題を起こしたらいけない」という非現実的な発想が根底にあることも否めない。直近の例で言えば、海上自衛隊の艦船は絶対に事故を起こしてはいけない。原子力発電所は、絶対にどんなミスも起こしてはいけない。大企業は絶対に不祥事を起こしてはいけない、などが挙げられる。

こうした発想が起こるのは、原子力発電は「危険か、安全か」という設問をすることに原因がある。当事者がこのような質問を受ければ、当然「安全」といわざるを得ない。安全といってしまっては、事故が発生した時点でそれを開示することはできなくなる。すなわち隠蔽することとなる。

この発想を転換するためには、設問を変えなければならない。例えば、「危険か、安全か」から、「安全を確保するためにどのような対策を講じているか?」、「万が一事故が発生した場合の対策にはどのようなものがあるか?」などに変えることである。起こり得る問題を未然に防ぐための予防対策と、発生したときのコンティンジェンシー対策を個別に設定することが肝要である。

論理的な思考法のコツの1つは、「目的と手段を同時に考えないこと」である。我々は意思決定をする際に、どうしても「手段に短絡する」クセがあることを自覚したい。

例えば、何か決める状況があったとしよう。企業であれば、「組織の統廃合案を決める」や、「大型設備の発注先を決める」などである。個人であれば、「住宅を購入する」、「長男の進路を決める」など、さまざまな状況が想定される。

上記の状況で、手段に短絡するということは、組織であれば「最適な組織を作り上げる」、
設備であれば、「実績のあるA社か、B社のどちらにするか協議する」、住宅であれば「Aマンションにするか、Bマンションにするか話し合う」、進学であれば「入学の可能性があるA大学かB大学のどちらに進学するか検討する」となる。

本題の「目的と手段」を同時に考えて、満足の行く結論が得られれば、論理的な考えは不要である。しかし、多くの場合混乱や堂々巡りを繰り返し、意見の対立を招く。

長男の大学進学のケースを考えてみたい。親は「A大学」を薦める。本人は考えがまとまらない。教師は「B大学」がよいと言う。この「A大学」、「B大学」のどちらにするかという発想自体が、手段や選択肢への短絡なのである。しかも面倒なことに、本人は考えがまとまらない。このようは状況を論理的に「捌く」ためには、「何を決めるのか」を整理してみることが必要だ。

「長男の進学する大学をどうするか」であれば、「大学を選ぶこと」が決めることとなる。これを目的に設定することが一般的かもしれない。ところが、これで大学を決めても、問題の解決にはならない。何しろ当事者である長男は「考えがまとまらない」である。本人は大学進学を躊躇しているのかもしれない。大学以外の選択肢を模索しているのかもしれない。

そうであれば、発想を転換しなくてはならない。つまり、4年間で何を達成するのかという、「目的」や「目標」を考えるのである。その際、「どの大学に進みたいのか」という「手段」に関する発想は禁物である。「4年間で何を達成するのか」という「目的」を考えることが合理的である。

「自分の手で金を稼いでみたい」、「社会生活を体験したい」、「○○の経験がしたい」、「自分を鍛えてみたい」、「将来なにをするかを決めたい」、「自由が欲しい」――。一見矛盾するようなことでも、本人が達成したいことであれば、それを「目的」として、実現する「手段」を考えなければならない。

「海外留学・研修」、「アルバイト」、「NGO活動」、「無銭旅行」、「農業従事」、「専門学校」、「大学進学」、など、さまざまな選択肢が考えられる。これは、1つの考え方を示したものであり、必ずしも現実的でないかもしれない。しかし、ものごとがなかなか決らない時には、「目的」と「手段」を分けて考える。そして、「手段」の前に「目的」を設定することが論理的で、賢いアプローチなのである。