飯久保廣嗣 Blog
最近気になる出来事
イージス艦衝突事故が先日新聞やテレビを賑わしている。清徳丸の吉清さん親子には、深い同情を申し上げるが、ここで、あえてこの事故への少数派意見を述べたい。陸上の交通事故の場合、片方が一方的に被害者であっても、相手方が全面的に非難されることはまずない。損害賠償を判断するときにも、保険会社が介入して、100%一方に責任があるという判断はされないのが、現実である。
そこで、今回の事故を少数派の立場から観察すると、問題の1つに、メディアによる世論誘導ともいえる一方的な報道が挙げられると思う。そこには、少数派意見は微塵も見られない。
2月19日付日本経済新聞夕刊の報道では、「海上自衛隊のイージス艦『あたご』が、マグロはえ縄漁船『清徳丸』と衝突した」とある。ほとんどの新聞やテレビのニュースはこのトーンで報道していると思う。そうした中、20日付産経新聞朝刊は、「イージス護衛艦『あたご』と漁船『清徳丸』が衝突し、・・・」と表現していた。
この2つの表現はどこが違うか。それは、助詞である「が」と「と」の使い方である。これは瑣末なことではない。「イージス艦」の後に「が」がくると、明らかに「あたご」に非があり、清徳丸が被害者という印象を与える。それに対し、「と」がくれば、加害者・被害者を断定しないことになる。
少数意見を言えば、清徳丸側にも何らかの過失はなかったのかという議論は聞かれない。漁船の状況について、何も情報がないことを指摘する報道もない。
さらに、海上保安本部が、あたご艦内を業務上過失往来危険容疑で家宅捜査したという報道もある。一方的にイージス艦を加害者扱いしているわけである。これは客観的な事実に基づいた原因究明とは程遠いのではないだろうか。
また、自動操舵で航行していたことが問題とされているが、この判断は艦長に委ねられていると思う。したがって、そうした現場のプロの判断にまで、論評することは果たして妥当なのか。
7700トンの巨大な船舶と7.3トンの小型漁船を比べた場合、どちらのほうがより小回りが利くのかという議論もまったくない。あたごは清徳丸の1000倍の大きさである。小回りの利く清徳丸が危険を察知してなぜ衝突を避ける行動に出なかったのかという議論もない。海上のルールはあるようだが、巨大な船の進行方向の前を横切ることの危険を察知できなかったのかということにも、疑問が残る。こうした少数派の視点は必要だと思う。
中国製餃子中毒の問題は、日本社会が今まで経験したことがない、未曾有の事件である。
関係者が原因究明に取り組んでいる現段階において、注意すべきポイントは、ややもすれば、原因を短絡的に特定することである。
また、問題の多様性から見て、網羅的・包括的に一挙に分析しようとするところにも、落とし穴が潜んでいる。要は、発生した現象から複数の課題を設定し、それぞれの課題に対して論理的な方法で情報を収集し分析することである。情報収集の重要なポイントは、問題現象が発生していない製品や地域に着目することであり、問題発生以前と以後の情報を確認することも必要となる。
論理的な分析のプロセスは、原因を想定するための情報や事実を絞り込むことになり、また真の原因でないものを除去するための枠組みにもなる。
2007年の第3回北京・東京フォーラム(NPO言論主催)の全体会議の報告書に興味深いコメントが載っている。それは、中国人民外交学会の要人が日本の友人の発言として紹介した、「日本は過程とデータを重視し、中国人は動機と結果を重視する」というものである。私なりに解釈すれば、過程とデータは「知識」、動機や結果は「智力」に関わることといえる。
現在、日中の共同作業で、原因究明が進んでいるが、発想や思考様式を相互に認識することも必要ではないだろうか。過程とデータから結論を得るまでのプロセスを見えるようにし、論理的な段取り(筋道)を構築することである。これをやらないと中国側の強引なペースに巻き込まれ続けることになるのではないか。
広辞苑第六版が2008年1月11日に書店に並んだ。第五版から10年ぶりの発刊となる。その新版の広辞苑における私の最大の関心事のひとつは、「意思決定」という言葉の存在だった。
1955年の第一版以来、広辞苑には「意思決定」という重要なキーワードが不掲載であり、このことに長年不満を持っていた。そこで、第六版で調べてみると、またしても不掲載である。「意思」と「決定」はそれぞれ意味が出ているが、「意思決定」は見当たらない。
同時に経営用語で欠かせない「リスク」については載っているものの、今日的定義には程遠いものだった。また、これも経営上の重要な用語である「課題」については、わずか2行の説明にとどまっていた。ちなみに、米国の辞書の WEBSTERを毎回引き合いに出して恐縮だが、そこには55行の解説がなされている。
広辞苑の第六版の編集には、編者の大変な努力と献身があったことだろう。しかしながら、グローバル化している情勢の中で、掲載用語やその定義を見ると、あたかも時が止まってしまっているような印象を持たざるを得ない。その原因は何か。詳しく見ていくうちに、巻末で各界の協力した専門家のリストを目にして、合点がいった。
専門家の中に「経営」を専門分野とする方が一人も入っていないのである。また、「経済」に関しては4名の方の名が挙がっているが、「哲学」は3名、「国際」は辛うじて1名、そして、教育はゼロとなっている。これは165名にも上る専門家のリストの中での数字である。このことが何を意味しているか。それは今日の日本が置かれている閉塞状況を端的に表しているといえないだろうか。
つまり、社会生活にとって重要な領域について、あまり議論がされていないのではないかと思うのである。ではほかの157名はどのような分野の専門家かというと、それは各知識領域の専門家の集団なのである。例えば、陶芸、農業、生物、音楽、植物、芸能、美術、日本史、中国史、科学、医学などの専門家の名前が挙がっている。その中でも、農林水産は8名、医学は8名、音楽は10名、そして、文学・歴史にいたっては31名にも及ぶ。
わが国の将来やビジョンの確立が必要とされている今日、日本人のこれまでのメンタリティ、すなわち、広辞苑の協力者の分布に表れているような構造を大幅に改革する必要が、この事実からも言えるのではないか。政府がブレーンとして招集する学識経験者や有識者も、こうした発想が潜在的にあるのではないか。この現状に警鐘を鳴らしたい。
外交の素人ながら、国民の一人として、中国の歴史認識への日本対応について、今回は触れてみたいと思う。
人類の歴史は戦争の歴史であるといっても過言ではない。その戦争を回避し、平和を実現させることこそが、人類に課せられた解決するべきであり、日本も率先して、世界平和のために自らの役割を果たすことが求められる。
ベトナム戦争時代に、私はある米陸軍の兵卒と平和に関して論議を交わしたことがある。相手は、いかに残酷な殺戮が両者間で繰り広げられたかを、自身の経験を踏まえて語った。その内容は今日振り返っても悲しさに満ち溢れている。そこで、この兵卒に「平和を定義するとどうなるか」と、聞いてみた。すると、「平和とは、紛争や対立が人間の生命・財産に対する脅威なくして、マネージされている状態」という答えが返ってきた。その適切で明解な言葉は今でも鮮明に覚えている。
1970年代の日米間には、貿易摩擦問題があり、緊迫した場面が何度もあった。当時の問題は、日本の対米貿易黒字であり、圧倒的に輸入する米国の製品よりも輸出の方が多かった。その結果、貿易のインバランスが起こり、政府が慌ててジャンボ機を購入したこともあった。
時経た今日、日米間では情報量について、インバランスが起こっている。ただし、70年代当時とは逆で、米国からの輸入が輸出よりも圧倒的に多くなっている。そして、この半年の間にアメリカ関連情報で圧倒的に多いのが、米国共和党・民主党の大統領予備選の情報といえよう。
G8先進国の中で、日本ほど米国の大統領予備選の報道を連日連夜取り上げている国が果たしてあるのだろうか。来る11月の大統領選に関する報道であれば、その情報量の多さも納得がいく。
しかし、現在の予備選挙に関する米国からの情報の入超は、マスメディアが無意識のうちに対米追従の姿勢をとっているのではないかと思ってしまう。
私は僭越ながら常々「日本はジャーナリズム不在であり、あるのはセンセーショナリズムではないか」と、思っている。歴史が転換するときに、物事の本質を押さえ、耳障りな内容であっても、それをあえて周知し、国民の意識を喚起することがジャーナリストの本質ではないだろうか。
今の時代、日本人と日本社会にとって、大切なものは何か、それは報道に値するものなのか、というジャーナリズムの原点が、ますます見えなくなっている。「新聞の質が国民の質を現す」という司馬遼太郎の言葉を今一度噛み締めたい。
巷では、米国の独善的な振る舞いに対する批判、日本の国際社会での相対的な地位の低下といった現実がある今日に、今後の日米関係をどのように考えたらよいか、という課題が国民的な関心事となっている。
そうした議論が起こるとき、いつも脳裏をよぎるのが4年前の2004年4月3日に、横浜で締結150周年の式典が開催された、日米和親条約の存在である。式典に私は実行委員の一人として携わり、当時の総理大臣・小泉純一郎氏をはじめ、多くの人々が参列したが、そこで改めて、条約締結150年の意味を考えてみた。
そして、気がついたことは、この条約が人類史上、西洋列強が非西洋の国と結んだ条約第一号であるということだった。それ以前では、西洋列強が植民地化した歴史しかないのである。
私の友人であるプリンストン大学の教授が、ちょうどその頃タイ王国とフランスの間に条約が締結された史実があるといったが、その日付を確認したところ、締結年は1856年。つまり、日米和親条約の2年後である。
この和親条約は、西洋のリーダーである米国と、非西洋の先進国たらんとしていた日本が、内容は不平等であったものの、対等な立場で渡り合い、締結に至った。まずこのことを、歴史的事実として再認識したい。
日米関係は、このような運命的な出会いから始まり、それ以来、西洋諸国のリーダーと、非西洋諸国のリーダーとして、お互いの地域を代表してきた。また、第一次世界大戦を同盟国として戦い、第二次世界大戦では敵対し、戦後は63年もの間友好的な関係を維持してきた。
アジアにおける日本の位置づけの議論の中に、日本の軸足を米国一辺倒から中国に移すべきであるというものがある。しかし、これは本質を見誤った考え方だ。心情的には理解できなくもないが、現実的ではない。
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