飯久保廣嗣 Blog

最近気になる出来事

我々国民にとって、防衛省昇格の意味は見えてきていないのが正直なところだ。単に国として格好を整えるだけだったのか、一部の政治家の発想だったのか。とにかく、主旨や背景が不明確であると感じている国民は多いことだろう。

過日、「平成19年度自衛隊音楽まつり」に招待された。事前に考えていた、いわゆる軍楽隊の吹奏楽ではなく、日本民謡もあり、ベートーベン交響曲、ガーシュインもあり、最後には200人近い奏者による和太鼓の演奏で、全体で1時間半のイベントは幕を閉じた。

平和を愛する日本人の一人として、まず感心したのが、会場の正面に掲げられたスローガンである。それは「平和を守る行動力」であった。このスローガンに接し、国の軍隊に関係する表現が海外においても時代とともに変わってきていることを思い起こさせた。

例えば米国では、初期の段階において、国防を司る政府部門を「戦争省(Department of War)」と呼び、これが「国防省(Department of Defense)」に変わり、現在に至っている。日本もこれにならって、防衛省となった。

また、私が十数年前にある日米関係のプロジェクトの一環で取り組んだ調査の中で、ひとつの事実を知ってショックを受けたことも脳裏をよぎった。それは、サンフランシスコ平和条約が締結された有名なオペラハウスに、なんと「戦争記念オペラハウス」(第一次世界大戦)という名称が付いていることだった。これは戦争の勝利を美化する発想であり、時代にそぐわない名称ではないかと思ったものだ。すかさず、サンフランシスコの市長に手紙を書いた。内容は、かの有名なオペラハウスを、「「戦争記念」はなく、「平和記念」に変えたらどうかという提案だった。

こうした背景もあり、防衛省・自衛隊の「平和を守る行動力」というスローガンを見て、まさに平和を切に求める世界唯一の原爆被爆国の国民として、防衛省の真の存在意義は、「平和を追求し、それを維持することである」という発想に行き着いたのである。

日本再生のために、教育の改革が叫ばれて久しい。従来のような、改革論議の延長線上で果たして抜本的な変化を望むことができるのだろうか。

日本再建のためには現行の教育の改革は待ったなしで必要である。以前から教育審議会では、さまざまな意見が出され、改革案が策定され、それが実施されてきている。しかし、多くの場合、成果に結びつかず、何年かごとに見直しがなされる。その繰り返しが続いている。これが、現実であり、この延長線上での議論に不満や物足りなさを感じている人は多いと思う。

教育審議会の委員の皆さんは、真剣にこの国の未来を考えて、知恵を絞っているのは間違いのないことだろう。また、海外の成功している教育制度などを参考に、改革案を策定する努力が、文科省などを中心に進められ、論議もなされている。だが、成果が乏しいのは事実である。

ここで、従来とはまったく発想の異なる論議が必要であると思う。そこで、私の私案をぜひ聞いていただきたい。ひとつは防衛大や防衛省の方々に私が実際に接して受けたインスピレーションから着想を得ている。

私は、数年前に見た、日米学生会議に出席していた3名の防衛大学生のことを、今でも鮮明に覚えている。その規律の正しさ、礼儀正しさ、りりしさ、積極的な発言などは際立っており、大きな感銘を受けたものだった。

また、先日、防衛省に昇格してから最初の音楽祭で見た、自衛隊幹部の立ち振る舞いは、感動さえ覚えるほど、りりしさに溢れていた。この音楽祭には米国及び韓国の吹奏楽団が参加していたが、わが国の演奏や行動は、まったく遜色のないものだった。そして、私は思った。こうした立派な日本人が輩出されているのは、まさに日本の高等教育の成果ではないかと。

ここでひとつ考えたいのは、日本の外交の重要性が再認識されているにも関わらず、その実態は他の先進国と対等なパワーを持っているのか、疑問に感じるということである。福田総理の訪米で、日本が提案したことの中に、「米国のシンクタンクに三年間で1億5000万円の支援」、「日本研究に二年間で1億円」などがあったと報道されているが、これは桁の間違いではないかと思うくらい貧相な内容である。

戦後の復興期を経て、米国に次ぐ経済大国になった日本で、「平和ボケ」という表現はことあるごとに使われてきました。この平和ボケについて、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。

そもそも日本以外に平和ボケという概念はあるのでしょうか。今まではそれで許されてきたかもしれませんが、今回の海自による給油の中断について、国会はもとより、マスメディアや国民のレベルで真剣に論議がされないことも、「平和ボケ」の現れなのでしょう。

11月5日のブログで取り上げたことに関連しますが、今回の事態は平和ボケでは済まされない、日本にとっての大きな節目です。つまり、今回日本が起こした行動により、「問題が発生してから対応するという日本の思考様式は、世界に通用しないものである」ことが証明されるのではないかと、私は思っています。

なぜ、給油活動の中止という事態になるか。そのひとつは、前にも述べた「コンセクエンス」という概念が日本にはほとんど存在しないからです。この概念は、「ある行動の結果、発生するかもしれない現象」と解釈されます。日本では、「問題が起きた時点で全力を投入して解決を図る」という発想が主流であるため、コンセクエンスという概念や、言葉すら存在しない。これが実態ではないでしょうか。

新聞の報道によると、10月31日の朝7時に、米英及びアジア各国の駐日大使が集合。場所がカナダ大使館であり、米国大使館でないことから、どのような経緯で集まったのかは定かではありません。米国駐日大使か、もしかすると外務省が会合を設定したのかもしれません。

この会合にはわが国与野党の国会議員と代議士も参加した模様です。会合が意味することを、素人なりに考えてみました。おそらく米国は、インド洋上における日本の多国籍軍艦船への給油活動中止の対応として、短期間の暫定的な処置でしのごうとしているものの、長期的には新しい選択肢を模索していることに疑いの余地はありません。

選択肢は複数考えられます。ひとつは、大きな製油所を持つシンガポールに補給を要請すること。また、米国との関係強化を目指しているマレーシアやタイ、あるいは韓国、インドネシアなどが要請先として、挙げられるかもしれません。もし、このようなことが現実となった場合、日米関係や日本の国際社会における存在意義に大きな悪影響を及ぼすことは、間違いのないことでしょう。そして、考えたくないことですが、仮に米国が中国やロシアに対し燃料補給を要請するようなことが起きれば、日米関係に致命的な影響を及ぼし、国際社会における日本の信用も失墜します。

「想定外」という言葉を、メディアで使った人物が誰であるかは、今更言及する必要はないでしょう。しかし、不祥事や問題が発生すると、安易に、この「想定外」と言う言葉が、使われる場合が今もあります。

「想定」を広辞苑で引くと、「心中で決めること」、大辞林によると、「状況・条件などを仮にきめること」という定義しか見られません。「想定」を英訳すると、“hypothesis”であり、その意味は、「ある結論を引き出すための想像、推察、推測、過程、考え」と定義されています。

この概念を現実に起きた現象に当てはめてみましょう。例えば、以前に発生したコンコルド離陸失敗による事故。原因究明で明らかになったことは、直前に離陸したコンチネンタル航空から鉄片が落下。その鉄片をコンコルドの車輪が巻き込む。巻き込まれた鉄片が、主翼に当たる。しかも当たった場所が燃料タンクだった。そうしたことが、偶然の連鎖となり事故につながったようです。

これらの一連の起こった現象を発生確率として考えた場合、極端にゼロに近いと、当時の事故調査委員会は判断。従ってこの事故は「想定外」ということになります。

最近の日米関係で気になることがあります。

まず、世界的な日本の自動車メーカーの米国法人の最高幹部2名が、相次いで辞任。そして、米国競合企業に就職する。さらに、同メーカーの現地の工場には、本社からエンジニア一行が「ご指導」のために訪れ、現場で働く米国人の間に緊迫した空気を漂わしているということを耳にした友人もいます。また、日本を代表する大手IT企業の米国法人がNASDAQ市場から除名に近い処分受けたということも伝わってきております。

一方、米国の消費者専門誌の自動車信頼度評価で、長年高い評価を得ていたトヨタの主力車が推薦リストから外されるなど、米国市場における信頼性が若干低下したという報道を、日経新聞で見ました。また、米国駐日大使がことあるごとに、日本の農産物の関税引き下げ(特に米)を要求していることも挙げられます。

なぜこのような現象が起きているかを、国益という切り口で考えてみる必要があります。米国人が非常に大切にしている産業や文化に対し、無神経に行動することが、どのような結果を生むか。これを想定してみたいものです。